illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

蓮根カレーチップス

下ごしらえ

  • 蓮根薄切り(A)
  • 酢水(B)
  • 片栗粉(C)
  • カレー粉(D)
  • サラダ油(E)

手順

  1. (A)して(B)に漬けて十分に放置
  2. (C)と(D)をボウルに投入してよく振るう
  3. (E)をフライパンで十分に熱する
  4. 1.を酢水から取り出してキッチンペーパーで水気を軽く切る
  5. 2.に4.をやさしく入れてまんべんなく振るう
  6. 3.に5枚くらいずつ入れて両面を丁寧に焼く
  7. 別に用意した網とキッチンペーパーで6.の油を切る

もんじゃの匂いがする。口にするとポテトチップスの風味がする。もっとからっとかりっとしてうまい。「これは人を怠惰に誘うよくない文明」という直観に襲われる。

*

きょう、はる君に会ってきた。尾張名古屋を襲うのはこれは既定路線として、来春くらいに、そのまま御一行様で少し先まで足を伸ばして、ホマレ姉さん id:homare-temujin を襲撃したほうがいいんじゃないかという気がしている。前向きに手はずを整えたい。蓮だけに。

庭で火を燃す話

いえ、あの、日本語なんだけど、「火を燃す」って、いや、発音に漢字は乗らないから「ひをもす」「hi-wo-mosu」、火を燃す、畑の枝を火に焼べる(お、これで「くべる」なのか)って、うちのばあさんはよく言っていた。

www.pochinokotodama.com

うちでも、庭の片隅で、銀紙に包んだ芋に火を入れていた。ちょうど、いまごろの季節から。落ちた庭木はかさばるので、庭の端に寄せる。頃合いの山ができたところで、庭でとれたさつまいもか、とうもろこし(時期的には、外れかな)を焼こうべか(北関東弁)という機運が高まってくる。

ちなみにいうと、庭の少し離れた一角では、筵(むしろ)が天日にさらされているのは、これは乾いた季節のわりと日常で、梅の実、りんごや大根や木瓜(ぼけ)の皮が、刻まれておひさまにあたり、ぱらぱらになる。梅はぱらぱらというよりさりさりって塩を吹いたりして。

信じられないかもしれないけど、学校に行って帰ってくる、そうすると、筵の上に、熱を受けて温かい、いい塩梅に水分の抜けた梅が、並んでいる。

それをつまむわけ。ランドセルを背負ったままで。

*

それで、芋の話。

うちは、紙のごみって出したことがあまりない。ほとんど、庭はずれで燃しちゃう。その、ぱちぱちって音と、煙の匂いは、これはもうほとんど、都市近郊では得られないものだろう。乾いた日には、毎日、ばあさんが何かしら燃していた。じいさんはもともとがインテリの人で、戦争に行かされて、肺の病気をもらってくる。庭には、散歩に出るくらいで、畑仕事がまるで出来ない。それはいいんだけれども、肺の病気ってのは痰が出る。ときに血が混じることもある。

その紙も、庭先で燃すわけだ。

いまこうして書いていて不思議に思うのは、じいさんはとにかく潔癖な人だった。おれたち孫が国立療養所に見舞いに行く、それでわるい菌がついて、持ち帰ってはいけないってんで、手洗いうがいには厳しかった。

いま気づいた。

「会いたいんだけど、会いに来るな」

って感覚、これはおれはじいさんから受け継いだものだったのか。

*

その、家に戻ってきたときに出る痰を拭いたちり紙を火に焼べる、いい塩梅に火が上がったところで、枝を寄せる、火が大きくなる、落ち着く、その、もとの炭をよけて、起こしなおした二度目の火種に、銀紙に包んださつまいもを埋めて、焼く。

いいのかね、あんなことして。まあ、結核ではなかったからね。

じいさんも、一度目の火種には「近寄ってはいけない」って、おれらを寄せなかった。

*

そういうその、おおらかさ、中途半端な適当さ、ってのは、いまにして思うけれども、おれらはまるで平気だった。だいたい、ばあさんが徹底していて、じいさんが何で家でぶらぶらしているのか、何の病気だったのか「自分がシャットアウトする」って出で立ちで、おれらには一切、話さなかった。

ばあさんが大丈夫ってんだから、大丈夫なんだろう。

ちなみにいうけど、うちの本家は麹屋といって、酒も仕込んでた。じいさんが生きてた間も、じいさんも主に暮らすのは離れ(家屋)、味噌や漬物の仕込みも別の離れ、なんだかよくわからないけど、共存は出来ていた。おれなんて健康そのものだった。

*

ともあれ、軍人の恩給だけでは食べていけない。それを、果樹園だとか、養鶏だとか、食用菊とか、いろんなことで、ばあさんは家財を守り切った。

「火を燃すけど、来るかい」

なんて、おれら孫たちに声をかけて、おれらはおれらで、それが何の合図か知っているから、わーっと、出ていく。リアカーで庭木を運ぶ手伝いをして、出来上がった、表に茶色の焦げめのついた銀紙をお盆に乗せて、熱い熱い言いながら、めくって、食べる。

片付けをして、縁側に戻ってきたばあさんの肩を叩くのが、おれの役目。当時、56とか、58とかだったと思う。「孫に肩を叩いてもらって、鉢が当たる。ありがとうね」

*

おれが、あれは叩かせてもらったんだなあと気づいたのは、ずいぶん経ってからのこと。「火を燃す」は、日本語表現としては破格なんだろうが、そんなわけで、ありだ。異論は認めない。

それでも小説家になりたいマスダンのために

小説家になりたい増田のために、ここはひとつ、いち老害として積極果敢、勇猛の精神を以てアドバイス罪に問われに参りました。

anond.hatelabo.jp

簡単な方法

自称することです。小説家は国家資格ではありません。罪にも問われません。所轄官庁への届け出不要。「ぼくはわたしは小説家だ」と名乗ればいい。例えば、はあちゅう。伏せ字には致しません。彼女は、小説家を自称しています。大変結構なことです。また例えば、乙武。彼も、小説家を自称しています。大変結構なことです。

正攻法

基本的には次の3つのステップを経ればいいでしょう。

  • 小説を書く
  • 応募/受賞か何かをする
  • 世間から小説家と認められる

順に解説します。

小説を書く

  • べらぼうな数の本を読む
  • 私淑/接続する作家を決めて模倣する
  • あるいはジャンルを決める
  • 小説を書きたいテーマに出会うのを待つ
  • 文体を練り上げる
  • まず1作を書き上げてみる

それぞれ10年くらいかかると見ればよろしいでしょう。間に合いません。間に合わない中で、勝負をする他にありません。

例えば、自分は太宰の後継を狙うと腹をくくったのなら、太宰、芥川、川端、三島、井伏、丸谷くらいは全作読破することが最低要件でしょう。そして代表作のいくつかを暗唱しましょう。メロスがいつだって貴方の頭の中で激怒するようになれば、まあ、入門の身支度は出来たといえるでしょうか。

ジャンルは、私小説でも、民俗学的意匠でも、歌物語でも、ガルシア・マルケスばりの奇譚でも、安部公房でも、松本清張でも、自分がバールのようなもので殴られた衝撃を感じた作品群があるはずですから、果敢にそこに切り込んでいくべきかと思います。

文体は、音読してください。自分の書いたものを街中で諳んじるのです。周りの目が気になるようではいけません。呼吸をするようにことばを紡ぎ、書いたものと読んだものと読まれたものの声が重なっていい感じのするところが、増田の地声です。カラオケと原理は同じです。テーマはそう簡単に降りてきませんから、神社にお通いになるといいでしょう。ほかに、港まで釣りに出て糸を垂れるなど。

書き始めたら、ぜひとも完結させてください。一篇書けば、自分の辿った稜線と、山の高さが見えます。それはかけがえのない財産にきっとなる。他人が何をいおうと、ぼくはわたしはこの山だというのが手応えとして両の掌に残ります。その頂から見る光景は、何ものにも代えがたい喜びです。

応募/受賞か何かをする

動機は金ではないかも知れません。私のように(【PR】えへんおほん)。しかし、それだって、賞金はわかりやすい目安/指標です。応募方法はそこらに転がっていますので、ぜひご自身で。私も累計で50万円くらいは獲ったクチです。ちなみによろしいですか諸賢、18で応募を始めて27年間で50万円強ですよ。3歳から本の沼地に嵌って4万冊を読んで家財を傾けてこのありさまです。

世間から小説家と認められる

まあ、だいたい運のよい方でも没後50年ないし200年を過ぎてからです。いいじゃないですか、中等教育を受けた日本人なら、大半は「犯人はヤス」「ごん、おまえだったのか」「メロスは激怒した」「下人の行方はだれもしらない」「その声は、わが友、李徴子ではないか」を知っています。小説家になりたいってのはそこに賭けることでござんしょう。

まず1作を書き上げてみる

1作でいいんです。たとえば、江國香織は99%の作品は読んでもあんまり残らない。けれど「デューク」だけは、あれは圧倒的に何かを残してくれる小説です。そこを狙うのはありでしょう。古くから、この界隈では「だれしも1作くらいは小説にできる物語を持っている」といいます。

私も、そこを狙ったつもりでした。

【PR】船橋海神「セカンド・オピニオン」

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おれの青春は終わった。よよん君、すまない。ありがとうね。

身近なところで

ここからが本題です。

これまで縷々、述べてきたことをすべて取っ払い、すっ飛ばして、わが軍には、智将黄金頭氏がいる。かれは大変な読書家であり、持って生まれ、鍛え、持続したセンスと、文体と、すぐれた作品がある。私はだれが何といおうと、黄金頭さんは近代古典的な意味で《同時代を代表する》物語作家だと確信しているし、そのことは今後、彼が売れても売れまいとも変わらない。

その彼にして、

goldhead.hatenablog.com

これです。まあ、余興の記事とは思うけれども(笑)。

しかしそれだって、15年に及ぶ膨大な蓄積と、

記事一覧 - 関内関外日記(跡地)

kakuyomu.jp

この奇書があって、それでも、小説というのは難しいテーマであるらしい。

それでもせめて基礎トレーニングだけでもと仰せなら

前に書きました。

dk4130523.hatenablog.com

日本語で勝負するわけですからね。まあ、うまくいかないでしょう。増田が、ではなくおれが。脱線ついでに、ミーハーなところで、村上春樹のこれは読んでおいて損はないでしょう。

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)

 

まだまだ、漱石であるとか、中上健次であるとか、話せる/話したいことはたくさんあります。まあでも、こればっかりは、「まず1作を書き上げてみる」「語り/文体の確立」これらに尽きるのではないでしょうか。もちろん、そうやすやすとできる話ではありません。だから僭称していいかといったら、そりゃ、叩かれます。その意味ではいい時代になりました。かしこ。

追伸

AKBに入り、ゴーストライターを使って「小説家に転身します」と宣言する。なかなか上手い方法です。

ソースを読むという感覚(しかしそれが目的ではなくて)

昨晩、金曜の夜くらいはいいだろうと船橋の書店に向かった。

店舗内でおれの向かう先はだいたい決まっていて、文芸誌、文庫、パソコン雑誌、パソコン書籍の一角である。それ以外の箇所は眩くて辟易する。変な日本語はできるだけ吸い込みたくない。(それをいったら文芸誌でも…)

*

ま、それはいい。薄っぺらになった工学社「I/O」に時の流れを思い、思い出したことがあって、ぜひブログに書いておこうと思ったことがある。かように「思い」を3連発する程度にはおれの日本語は鈍っている。

*

おれがI/OやASCIIやマイコンを読み始めたのは1980年の夏頃。父親がPC-8001と8031(1Wだ。2Wや80S31ではない。5インチである。片面単密)とカラーモニタをどこからか仕入れてきた。おれはたちまち夢中になり、日々何かしら打ち込んだ。打ち込むというのは精を出す比喩ではなく、文字通りキーボードを前にプログラムを入力する行為を指す。かちゃかちゃ、かちゃかちゃ、やるのである。だからおれのブラインドタッチは亜流もいいところで、初めて見る人はその異様な右手中指と左手親指と人指指の活躍/躍動に驚き給う。放っておいてくれ。80年当時、ガキの手の届く世界にブラインドタッチなる言葉自体がなかった。

*

ちなみにマニュアルもリファレンスも付いてこなかった。それでどうやってN-BASICとZ80を身につけたかといえば、それがI/OやASCIIやマイコンベーマガ、PiO、POPCOM、徳間のプログラポシェット、RAM、Foresight(マイコンクラブ)などなどのおかげである。人気機種、80、88、FM-7、MZ、X1などのプログラムを打ち出したものが、ゲーム9割、実用1割の比率で掲載されていた。N-BASIC(PC-8001)用のものは雑誌が店頭に並んだ当日と翌日にあらかた打ち込んでフロッピーに保存して遊び尽くしてしまう。自機は増やす。色味も変える。

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んでやることがないのである。どうするか。まあ、BASICは多少の方言があれど、まあ、なんとかなる。せっせと移植に励む。PLAY文とSYMBOL文以外は、まあ、なんとか。あー、320/640の解像度を160x100のセミグラフィックに移植するのは大変だった。PASOPIAのはN-BASICに比較的移しやすかったなあ。マニュアルがないから、エラーメッセージから、「有る機能/構文」「無い機能/構文」「取り得るパラメータ」を逆算するほかにない。

まあ、そもそも、他機種のは動かなくてもいいんだ。「こんなゲームが、機能がある」「こんなロジック/アルゴリズムがある」そのことの感動に、おれはPC-8001を触っていたときが、他機種のプログラムを紙面で眺めて夢想していたときが、いちばん楽しかった。スプライトに憧れる少年期でした。

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Z80だって、ROM内ルーチンだって、似たような手順さ。

  • 16進をテンキー片手で入力するプログラム(N-BASIC)→同(Z80)→同リロケータブル→逆アセンブラ

ここまでの自作は、必然でしょう。5年目、中1くらい(1985)かな。とはいえ、最先端は88に移り、80の雑誌資産を見ていて「世の中にはこんなにすごい人がいる」ことは分かっていたし、それでも「自力でなんとか山に登りたい」一心。FM-NEW7と88SRが家に来てからも、やっぱりおれは8001と8031が好きで、マシン語の読み書きができるDisk Operating Systemを自作する途中まで、8001と並走していた。おれにとってのその究極の目標は2つ。円周率の無限計算。それから、ペナントレース130試合の記録とシミュレーションだ。だからいまでも円周率も素数もフィボナッチもフラクタルレイトレーシングも、サイバーメトリクスも大好き。

*

でね、その基礎的な鍛錬、修練は、Web周りは別よ、別だけれど、VBAとかPHPとか、Pythonとか、まあ、楽だわね。オブジェクト指向は無理よ。だってガキの頃にやってないから。いまでも気持ち悪い。プロシージャ好き好き。あ、再帰は好きよ。

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それで、「ソースを読む/読もう」みたいな話しをよく見かけるわけだ。

しかし、本屋で手にする、紙に打ち出されたもの以外は、おれはどうしても「読む」「頭に入る」感覚になれない。これは実は文章でも同じで、日本語でも英語でも、紙でないと読む感じに入っていけない。みんな、どうしてるんだろうね、なんてことをふと思い、おれはこれからPiSTARTERに向かう。ライフゲームでも実装するかと。

*

(追記)おれが、マニュアルなしの世界からN-BASICを習得したプロセスが、実は赤ちゃんが母語を身につけるプロセスと近いんでないの? 的なことに気づいたのは、ずっと後、チョムスキーとかを読むようになってからの、それはもうめでたい出来事、世界の再発見、なのでありました。

豚汁とアスパラガス

秋は文化祭の季節。

おれは文化祭は好きだった。学校が実質休みになるから。だがその中でPTAが主催する豚汁がいやでいやで仕方なかった。まずいからである。加えて皿が貧相なのもいやだった。

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うちのばあさんの作る豚汁はうまかった。レシピはいろいろ探し、試してもみたのだがこれが一番近いような気がする(ただしレシピにさといもは入っていない)。

www.marukome.co.jp

しかし諸君驚くなかれ。ごぼう、にんじん、だいこん、ねぎ、レシピには書かれていないがさといも、本家が麹を扱うのでみそ、すなわち豚以外の食材はその辺に生えているか、家中から(なんだその表現は)手に入るのである。もっというと、豚が入ってなくても一向に構わなかった。鶏肉のこともあったし、肉なしで小麦粉のお団子状のものが入っていたこともあった。前に何かで書いた気もするが、おれにとっての豚汁はそういうものだったので、大満足だった。ちなみに子供なので唐辛子は入れない。

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さといもは八頭(やつがしら)といって、めんどくさい形をしている。

八つ頭 八頭 やつがしら (里芋):旬の野菜百科

これをばあさんが豚汁用に切るのだが、自分でつまむ用に、それから孫に食べさせるように、ちょっと手頃なのを脇によけてレンジでチンする。そこに、醤油、バター、塩のうち1つか2つを垂らし、皮に切れ目を入れてつるっと剥いて、ほくほく口にする。

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なぜ、あんなにうまい八頭がうちにはあったのだろうか。そしてなぜ、文化祭でPTAが出す豚汁はあんなに何か毛羽立たしい化学めいた味がするのか。

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ほかにうまいものといえば、庭に生えているアスパラガスである。

うちは庭が広いのが取り柄で、まあざっと敷地1,200坪、玄関から門塀までの間に通用路とその両脇に花畑と野菜畑が畝を作っている。その、野菜畑の一角に、アスパラガスが生えていた。生えていたというのは不正確な表現で、もちろんばあさんが植えていたのを、初夏の明け方に若い芽をぽきっともぎり、井戸水で流してそのままもぐもぐやるのである。そのみずみずしさ、歯ごたえといったらない。茹でたり、マヨネーズをつけたりなどというのは文明に毒された頭のおかしい連中のやることだ。

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そのアスパラガスは、なぜか年ごと季節ごとに庭で生える位置が変わっていた。ばあさんに尋ねると「さあ、どうしてだろうね」とにこにこしていた。連作障害が起きやすいことをばあさんは昔の人の知恵から学んでいた。おれが聞き及ぶ範囲で、ばあさんの農業に関する知識はそのようなものだった。プラムも、いちじくも、柿も、桃も、たまねぎも、食用菊も、栗も、木瓜も、紫陽花も、柏も、モチノキも、みんなそうだった。

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そんなわけでおれはばあさんが亡くなったとき、親族代表の挨拶でそれら庭に生えている木々の名前を能う限り数え、並べ、最後に縁のあった人形(ひとがた)の名前を添えた。

葬式の朝、庭と畑を隅々まで歩き、盆栽の裏を返したとき、おれは畑道具の名前を何ひとつ知らないで育てられてきたことを初めて悟った。幼いころにばあさんの後ろをついて耳に馴染んでいたはずの花や枝や実の名前も、あらかた遠のいていた。

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それでも、彼ら木々たちがばあさんを見送りたいだろう気持ちが、何となく伝わってきた。何かの加護だったのだろう。