illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

もうカレーのことは忘れてしまえよ

もう彼のことは忘れてしまえよ。

(中略)

ただ週末のわずかな彼との時を

つなぎ合わせて

君は生きてる。

 

息が詰まるほど

人並みに押されて

週末電車でアパートへ帰る。

 

まだ君は若く

その頬の涙

乾かせる誰かがこの町のどこかで

君のことを待ち続けている。 

浜田省吾「もうひとつの土曜日」

*

すみません、歌詞の並びは思い出すまま、適当です。

3周くらいまわって、ほんとにいい歌詞だと思うんですけど、75周くらいすると、この歌い手は肝心のことがわかってないことに気づきます。一般には気づくのがもうちょっと早いかな?

*

彼女(「君」)は、週末のわずかなカレーとの時間だけで残りの5日なり6日なりを生きていけるんですね。生きていけないんじゃないかと勘ぐる/そこに賭けてみたくなるのは歌い手(だけ)です。その身勝手さと紙一重の一途さが若さゆえ、ではありますが。

*

僕は朝6時に船橋を出て、材木寄せ場で7時から働いています。19時に家に這い着きます。その間、思っているのはくーちゃんのことです。朝と晩と夜半の僅かな時をつなぎ合わせて僕は生きている。それはくーちゃんが僕を待っていてくれるからです。待っていてくれると信じることができる。彼女(「君」)だっておそらく同じ仕組みでしょう。

*

それは十分に、満ち足りた幸せではありませんか。

*

野暮を絵に描いたような浜省の歌詞は、しかし誰しもいちどはかかる麻疹のようなもの。

*

今回76周めで、私はみなさんに伝えたいことがある。

これ、「君」を待ち続けているのは雄猫かもしれない。そうして再び上に目を遣って歌詞を眺めてみる。悪くないシーンだと思いませんか。

*

斯くして今回の私のテーゼ:「もうひとつの土曜日」の歌い手は、猫(雄)であった。

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