illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

下の名前の由来

私の下の名前の由来には長い間謎があり、名付け親の言い分として森敦説(「月山」=父親)と中島敦説(「山月記」=母方の爺さん)があって、まあどちらにせよ立派な作家なのだが(けふんけふん)、おれは森敦じゃないかとずっと思ってきた。洗脳されてきたといってもいいだろう。

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森敦「月山」がちょうどおれの生まれた時期の芥川賞だったからで、「月山」こそ現代芥川賞を象徴するにふさわしい作品であることは論を俟たず、あさま山荘で挫折を味わった父親が文学書にのめり込んでいた時期にも一致する。まあ父親を擁護するのは反吐が出るほど嫌ではあるが、イデオロギーとは別の次元であやつの本を見る目は確かだった。字が下手くそで、母方は達筆なので(爺さん-母親-俺)、おれはそのハイブリッドの矛盾にいまだに苦しむ。くそう。

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んで何気なくウェブを渉猟していたら爺さんとこの足利の家と中島敦のところの家のつながりが見えてしまったのである。

中島撫山―綽軒ときて、

____|-竦-敦

 

だ。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000135513

敦は「山月記」の中島敦である。竦はその父ちゃん。綽軒(?-1906)は竦の兄で、栃木県南の大平山あたりに私塾「明誼学舎」を開いた。爺さん(1921-199x)は桐生だか赤城山麓だかの生まれで足利に育ち、

大平山に通って漢学の先生に習った

と、生前ずっと以前に聞かされていた。足利時代の前後―といっても数十年のスパンがあるが―に、山本有三(愚作)、相田みつを(もう大概にしてほしい)、檀一雄(任侠)がいる。

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綽軒(?-1906)、つまり中島敦の伯父と、大正10年(1921)生まれの爺さんに、直接の接点はない。ここからは調べてみないことには判らないが、爺さんのいうことが正しければ、おそらく、明誼学舎の後継舎か、その教育を受けた漢学者が、昭和10年頃まで(例えば、1890年生まれ、1940年没、くらいで)岩舟(「秒速5センチメートル」)、大平山、栃木、足利で教えを講じていた可能性はある。爺さんはそのMr. Xに習った。

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うちの爺さん方の足利の家にはなぜか埼玉の久喜に縁があり、後に結婚する婆さんの家も巻き込むような形で、何かとあの辺りとは人の出入りがあった。そのことをずっと不思議に思っていた。久喜は中島敦の爺さん、撫山先生の本拠である。何かしらのつながりがあった可能性は考えられる。

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ほかにもちょっと書けないのだけれど、久喜市の発行している、ウェブで手に入る撫山先生関連の資料を拝読するに、遠い昔を呼び起こさせる固有名詞が次々に出てくる。撫山先生、小さい頃のおれに馴染みのある県下、たとえば古峯神社、出流山、戸奈良村(佐野)、宇都宮…に足をお運びになっている。人名や家の名前は書けないが、ははあんと。

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おれの爺さんは青年期の進路選択でいちばん肝心な時期を戦争で棒に振り、漢学者としては大成しなかった。戦後の肩書は傷痍軍人だ。いまでは地元でもだれも名を知る人はいない。

その爺さん(ほにゃらら善次郎)が「安田善次郎と(なんとか)ヤス次郎…にあやかろうとして、金持ちになるようにと親が安田のほう(下の名前)を選んだと聞かされている」とたまに思い出したように話していた。安田善次郎はわかる。

安田善次郎 - Wikipedia

天秤にかけられた、なんとかヤス次郎…が長いことわからなかった。(なんとか)はおれの注釈だ。歴史辞典に出てこないので知らん。数えるほどしか聞いていないはずだ。(だが私は覚えている)

ついさっき知った。中島綽軒、本名靖/靖次郎、であった。

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おれはいま猛烈に感動している。爺さんが親父に負けるはずがない。表向き、森敦の顔を立てつつ、中島家への恩義を託してくれたのだとしたら、おれはなんというか、冥利に尽きる。

憶測の域を出ないが、ここに書けないことも含めて、符合しすぎている。諸君、今回のおれはガチだ。爺さんは、中島敦を知って/見聞きしていた。中島敦本人でないにせよ、その親族に、栃木県南か、埼玉久喜か、大陸(大連か?)で会っていた可能性は、捨てたくない。