illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

杉山清貴のよさというものを若い衆に知らしめたい

杉山清貴のよさというものを若い衆に知らしめたい。

夏だというのにタイムラインがチューブや杉山清貴で埋まらないのはおかしい。観測範囲やフォロワーの問題ではない。総量として語られなさすぎている。

*

第1位

君のハートはマリンブルー

www.youtube.com

異論は認めない。

第2位

サイレンスがいっぱい

www.youtube.com

イントロと歌詞の繊細さは最高だ。さすが林哲司康珍化である。異論は認めない。

第3位

サマー・サスピション

www.youtube.com

歌い出しが最高。それと"Weekend Driving"ここ。"I can't say" "You can say" 杉山清貴の歌は口ごもる男と何か言いたげな女が登場する。異論は認めない。

第4位

ふたりの夏物語

www.youtube.com

髭そってほしい。正直に言って最高だ。これが1985年だとしか言いようがない。異論は認める。

第5位

最後のHoly Night

www.youtube.com

クリスマスはWham!でも山下達郎でもユーミンでも広瀬香美でもなくこれだと思う。本曲は1986年。オメガトライブが解散したのが85年末。ケインコスギじゃなくて(正直すまん)、カルロス・トシキになる。杉山はソロで活動を開始し、なんというかやっぱり杉山清貴である健在であるを示したのがこれ。異論は認めるに吝かでない。

第6位

風のLonely Way

www.youtube.com

杉山曲に出てくる女性は別れを選びすぎるきらいがある。まあ。でもさ、サビを聞くと吹き飛ぶのよ。異論は認める。

第7位

さよならのオーシャン

www.youtube.com

オメガトライブを離れて初のシングル。いい曲だとは思う。だが多少「易きに流れ」ていはしまいか。サビへの入りとか。異論…あるまいな。

第8位

ガラスのPALM TREE

www.youtube.com

歌い出しが難しい。本曲を以てオメガトライブと杉山の時代は終わった。「壊れやすい人だった」ほか歌詞が渋い。ひとつひとつのフレーズが利いている。メロディはやや安易なところがある(のだけれどそれが杉山清貴ぽくていいのだ)。間奏のところの歌いにくさは杉山曲の中でも随一でないか。異論は…ありそうだ。

*

ここに、紹介していないシングル曲もアルバム曲もあるけれど、知らない人が初めて聞くとしたら、

LIVE EMOTION

LIVE EMOTION

 

これかなあ。それか、 

FIRST FINALE CONCERT [DVD]

FIRST FINALE CONCERT [DVD]

 

これかなあ。"ROUTE134" 名曲だ…(異論はないはず)。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(05)

前回の続きです。世の動きや流れがどうあれ読み進めていくことは大切です。

dk4130523.hatenablog.com

引用します。

ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすること自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか。それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。

掲題書P.59

一見、Tに理解を示すようで、自己中心的で危険な思考方法です。

    1. ウィキペディアにも何かと問題はありますが、

      LGBTという用語は「性の多様性」と「性のアイデンティティ」からなる文化を強調するものであり、「性的少数者」という用語と同一視されることも多々あるが、LGBTの方がより限定的かつ肯定的な概念である。》

      https://ja.wikipedia.org/wiki/LGBT


      本件は、アイデンティティに関わる問題です。だから、生きづらさ、という問題のベクトルが出てくる。それも多様でマイナーなあり方。以前の記事にも同様の趣旨のことを書きましたが、アイデンティティの自己決定権は、障害(といういいかたも好ましくありませんが)への対応とは、丁寧に切り分けて考えるべきことです。また状況論として、現時点でLGBとTの間に分断線を引く積極的な理由はないというのが私の立場です。ここは論者により議論があろうかと思います。

    2. 前項に付言すれば、切り分ける=オペレーショナルな(操作/処理可能と考える)理性は、杉田さんがおっしゃっているように、(性転換)手術(=オペレーション)に地続きです。性転換手術を推奨あるいは「立国」する発想まですぐではないですか。タイ等を参照して。それより前に、果たして、去勢すればアイデンティティの安寧が戻るか? おーい、司馬遷。わからなければ、見田宗介の次の書物を参照して下さい。 

       

    3. さらに敷衍します。杉田さんの《病気》を「治/直してあげる」「政治家として考えてあげる」発想の型、これを私は前回の記事で「恩恵的行政観」と書いたように記憶しています。だから、「考えていい」という言い方になる。治療行為によって生がよりよくなるなら、その道筋はつけるべきです。けれど、アイデンティティ、それも性アイデンティティは、もっと複雑なものです。わからなければ、福田恆存の次の書物を参照して下さい。

      私の幸福論 (ちくま文庫)

      私の幸福論 (ちくま文庫)

       

引用を続けます。

一方、LGBは、性的嗜好の話です。

違います。より、性的指向の話です。

以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。

これが杉田さんの素朴な実感論です。これ、AO入試で落ちるレベルですよ。まさか政治家がネタではなく寄稿論文でこんなことを平然と書く時代が来るとは。少し真面目に話をすると、杉田さんは、こと性アイデンティティに関して、感受性レベルでは、女子校の内輪ノリからまったく成長していないことがわかろうというものです。

問題は次です。

ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。

アイデンティティを論じる難しさのひとつがここにあります。杉田さんにも少しは考えてほしいので、論点を並べるだけにとどめます。

  1. 「普通」「非普通」の二分法自体が、古くは1960年代のマイノリティの目覚め、リブ、サブカルチャーといった、反メジャー、非普通の側から長く水面下で問われ続けてきた。この背景の先に、こんにちの今回議論しているような問題がある。「普通」を雑な手付きで印籠のように取り出すことは、半世紀以上の退行にほかなりません。

  2. 一見「普通」に見える(制度的)恋愛や(制度的)結婚を維持しつつ、性アイデンティティの問題を抱える個人やパートナーシップや配偶者のあり方が、杉田さんにかかってはあっさりと切り捨てられている。ひとくちにLGBTは人口の7から8パーセントですか。よく引かれる比喩のとおり、左利きや、AB型の血液の人と同様の構成比です。杉田さんは、高校時代から、目は付いていても何も見てこなかったということです。

  3. いま現在も同じです。演説に出た先の票田の、13人から14人にひとりは、いまでも杉田さんの目に入っていないことになる。立法者としてこれは問題だし、政治(集票)センスとしてもダサいし、まさにこのようにして「普通」に覆い隠されて「ないもの」にされることが、この問題の本質のひとつということが杉田は判っていない。

引用を続けます。

マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

  1. 第1回の精読時に書きました。どの新聞の何年何月の何面の記事ですか。思うところがあるのならマスコミ(朝日かな)と公開討論をおやりになればいいのに。

  2. 私は、異性愛であっても「普通でない」恋愛のほうがむしろ(どちらかといえば)楽しいと思うし、同性愛の「普通でなさ」は、こと文化や文学には、滋味掬すべき彩りがあると思う。実生活にあっても、オフパコはいけないと思うけれど、(以下脱線気味なので略)。

  3. 個人が《それ》を幸と感じるか不幸と感じるかは、杉田さんが決めたり、口出しをしたりしていいことではありません。Twitterで遊んでいる穀潰しが、思い上がりにもほどがある。

*

多様性の先に、個としても社会総体としても幸福(の増量)がある。そう、いまなお信を置く勇気をもつことができるかどうか。たかが極東の島国の人口動態や財政難なんて関係ない。理想を見据える際に、ときに、そう言い切る蛮勇をもてるかどうか。

杉田さん、貴方の決定的におまんこチキン野郎である所以は、例えばそこです。

明日、また書きます。(みなさんがガツンとおやりになる中、私はちまちまと小出しに、意地悪く論文読みを続けていきたい所存です。)

夏休み大人ブログ相談室

季雲納言さん id:kikumonagon からとても興味深いコメントをいただきました。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(02) - illegal function call in 1980s

子供目線の話でごめんなさい(・ω・`)少しジェンダーな話題を見ていて思ったことがあるので書きますね

以前ネットで「同性愛は子供産めないから非生産的だ、良くない」「自分は生殖の為に彼女と付き合ってる訳では無い。好きだからだ」という趣旨の発言を同じ人がするのを見ました
今までの私は同性愛について「好きなら一緒にいればいいし、性に関係なく誰かを好きになれるのは人間らしくて(失礼な言い方になりますが)興味深い」と思っていたし、普通にBLGLの文や漫画も読んできました。しかしこの話を見て、出産を選択しない夫婦と同性の夫婦の違いがわからなくなってきてしまいました

それと、同性愛の同性を忌むことについて考えてみたのですが、「今まで普通の同性という認識をしていた人が自分を性的な目で見ている」という恐怖が理由だと私は思いました。が、これも一種の思い上がりではないかと。「男なら誰でもいい」「女なら誰でもいい」と決めつけるのは失礼過ぎるし、恋愛対象の性別に友人がいることは「恋愛を超えた友情はありうるのか?」という別の問題になってしまいます

悩むべきことなんでしょうか…?考えれば考えるほど、どうしてこれだけニュースやネットで性別の話をしなければならないのか理解出来ないんです。平安時代は堂々とブログに「誰々くんとデートした」と書く男性もいたのに…

これ、どなたか答えられる方、いらっしゃいますか。提起された論点は大きく4つです。

  1. 出産を選択しない夫婦と同性の夫婦の違い
  2. 同性愛の同性を忌む理由
  3. 恋愛を超えた友情はありうるのか
  4. そしてこれら1.から3.は、悩むべきことか

*

ばらばらにしか答えられない話なので、ばらばらに僕なりに答えてみようと思います。

*

人と起居をともにする動物は従来「家畜」「畜生」と呼ばれてきました。これが(思い切り時代は下りますが)ペットと呼ばれ、愛玩動物とも呼ばれるようになり、おそらくもっとも「進歩的」な一派からはコンパニオン・アニマルと呼ばれています。

この流れは人間側に自分たちは動物にとって何なのかという問いも迫りました。主従関係が揺らいだわけです。今日もっとも進歩的で穏健な一派は自分たちを「お世話係」と呼びます。高らかに宣言するといってもいいくらいだ。

さらに、動詞の用法も代わります。「犬や猫」(A)に「めしを」(B)「やる」(C)。これが従来の常識的な言い回し、国語の敬語では正しいとされてきた言葉遣いです。A、B、Cともに、私自身、生まれ育って実家でともに暮らしてきた犬や猫には、「犬や猫にめしをやってき」ました。これが、くーちゃんと出会うことによって革命的な転回を遂げた。

    • 「犬や猫」(一般名詞)→「くーちゃん」(固有名。呼び捨てがあってはならない。くーちゃんちゃん)
    • 「めし」→「ご飯」(実際の運用では「おいしい新鮮なお水とご飯ですよ」などと美化語を伴う形となります)
    • 「やる」→「あげる」「差し上げる」

用例:今朝も、くーちゃんちゃん様に、新鮮なお水とご飯を差し上げました。下僕の務めです。

私は今後、私塾の国語の教壇に立つ際には、この線に沿って敬語を板書しなくてはなりません。

*

何を申し上げたいかというと、関係が言葉の見直しを迫り、また、適切な言葉が与えられたときに、そこには新たな関係を人は見出し得るということです。まず、「出産を選択しない夫婦」「同性の夫婦」には、何かしら(コンパニオン・アニマルという表現が新たな地平を切り開いたように)ふさわしい命名が必要です。ただ、私の知る限り、いまはまだそれがありません。

*

第一の論点に関して

その上で、両者の違いを「生殖」や「生産性」あるいはそれ以外の一切の尺度から、問うことは、原則としてあってはなりません。季雲納言さんを責めているのではなく、100組の2人組がいたら、それは百様の関係です。それに名をつけさせるのは、いわば、中島みゆき「世情」が歌い上げたような世間一般つまり私たちの弱さであり、臆病さです。

「お二人はどんな関係ですか」旅先で、お嬢と私も、これまでしばしばそのような問いを投げかけられてきました。《別れた妻の最愛の姪です。つまり僕からしたら他人です。20年来の一番の親友です》何度か、そう答え、私は諦めることを覚えました。そして、関係性は形容詞や名詞ではなく、もし説明をするとしたらそれは固有の物語によってのみ可能なのだという予感的確信が私の手のひらには残りました。

*

第二の論点に関して

これは、ひときわ難しいですね。「同性が性的な目で自分を見ている」という認識自体が近代の産物なのかもしれません。悪左府台記」が好例を示しているように、権力中枢にある、ある種のオーラを発している男性には、男性から見ても「これはいっそ抱かれてもいい」と思える(ばかりか、思わず茎ががちがちになった、などという記述もあるくらいの)魅力があったそうです。魅力というか衝動ですね。

異性愛や婚姻に馴致されていなかった中世人には、そうしたものの感じ方があったと僕は思うほうです。折口信夫は自身の性的指向もあれど、その辺を直観していたのではないかと思わせる匂いが叙述や生涯からぷんぷんします。

折口は例外として、ひとついえるのは、「忌む」という感情の前には、生産性や子作り子育てという思弁はないのではないかということです。ただなんとなく、気持ちが悪いのかもしれない。そしてその気持ち悪さが何に由来するのかは、文化や制度や教育と、私たちの感受性が解きほぐせないくらいに結びついたところに、おそらく答えがある。ちなみに福田恆存はこれを「性はわからない」と喝破しています。そのとおりだと思います。

*

第三の論点に関して

恋愛を越えた関係は、これはあります。

自分の物語の話をさせてください。

kakuyomu.jp

私はこの物語で、血液グループ先生を、はじめから終わりまで代名詞で受けなかった。それは血液グループ先生が「2ちゃんねる」のあのスレッドで、ご自身の性別を明らかにせず、男性口調(名古屋地方の方言かな)を用いていたためです。こう書けば、血液グループ先生が何性であるかはいわずと知れたことです。けれど、僕は血液グループ先生のあのスレッドでのスタンス、仮面のかぶり方は、最大限に尊重しなくてはならないと感じた。

だから、僕の物語中での叙述はものすごく苦しい。ひとこと、「彼」ないし「彼女」で受けてしまえば済む。いやだね。おれはそういうのは断るんだ。

*

もうひとつ、これは季雲納言さんのことです。たしか、季雲納言さんには、相思相愛の、弟分か、弟君(おとうとぎみ)がいらっしゃいましたね。僕はとても慕わしい、好ましい関係のように、その「彼」が登場する記事をこれまで呼んできました。季雲納言さんならおそらくご存知でしょう、古典世界には、奈良あるいはそれ以前から、年上の女性-慕う年下の男性、という類型があります。必ずしも、婚姻関係や恋愛、恋人関係でなくていい。うまくいい表せないのだけれど、その感じ方は、太古の母系社会にあったとされる交差イトコ婚(もし興味があればレヴィ=ストロースを読んでみてください)の古い記憶を呼び覚ますものかもしれない。

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

 

話が脱線しました。そう、血液グループ先生でしたね。血液グループ先生(いやだね。おれは「彼」とも「彼女」とも書くつもりはない (´;ω;`))は、恋ではない、僕はこれを中世古語の含みで「慕う」と書きたいのだけれど、一期一会で思わず心惹かれる気持ちを、白血病にかかったよよん君に対して抱いていたのではないかと思う。それはよよん君にしても同じだった(はずだ)「慕う」なのか「大切」なのか…。

病床を訪ねた血液グループ先生は、何をしたか。

それにしても、どうしてわざわざ白衣で見えるなんてことしはったのやろか。

「できれば、よよん君と、足の裏を合わせてもいいでしょうか」

 そんなこともいうてはった。

 洋ちゃんがよろこぶのなら、どうぞと、あのときはわたしも思わず返事をしましたけれど、あれは何やったのやろうねえ。何か、お聞きになっていませんか、そうですか。

第3章:母 - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

ボコノン教の教義に、ボコマルというのがあります。

ボコノン教 - Wikipedia

それはひとことでいえば、「神の御心のために働く人々のグループ」であるところの「カラース」が行う秘技です。「お互いの足の裏同士をくっつけ合うことで、2人の意識を混ぜ合わせる儀式。行うと相手と強い親密感を味わうことができる」

ボコノン教えの作者=教祖であるカート・ヴォネガット(・ジュニア)は、その生涯でかなり複雑で難しい婚姻関係を送ります。

カート・ヴォネガット - Wikipedia

彼の求めていた関係は、性差や、婚姻や、友情や、その他の近代的な語彙によっては対応できなかったのではないかというのが、現時点の僕の仮説です。そしてそのような複雑な内面を形成し、作品世界に投影し続けたカート・ヴォネガットのことを、血液グループ先生は好んだ。僕も、彼の作品世界はとても好きです。

*

おそらく、近代世界の枠内で生きている以上、今回の問いには答えはありません。まとめに代えて、私から、季雲納言さんにお伝えしたいことは2点です。

  • どうか、そのような(今回お持ちになったような)問いを、できれば手放さないでいただけたらと思います。
  • 古文世界を、大切になさってください。

こちらからは、以上です。これから、(不承不承ながら)(いったんやりかけた仕事ゆえ)杉田水脈を叩きにいかなくてはなりません。長文失礼いたしました。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(04)

デモへの参加も、Change.orgへの賛同もいたしません。が、読むことはします。ときに小田嶋さん、おもしろいことはおもしろいですが、もうちょっとサイレントマジョリティに信を置こうよ的な。

business.nikkeibp.co.jp

前回までのまとめはいたしません。引用をば。

「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。

前回、この直前で切ったのは、この部分をとっておきたかったからでした。ここには、杉田水脈さんの決定的にダメな部分が(何度目だこれで…)出ています。この人(杉田さん)は、「あげる」というのですね。

最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らへの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。

「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。

悪しき恩恵的行政観の典型です。成すべきは、生きづらさを解消することにあるのではありません。前にも書きましたが、生きづらいかどうかを感じる自己決定権は、感じる側にある。そしてそれは譲ってはならない。従って、原理的に、100パーセントの解消は無理です。1億人いたら1億人の生きづらさがある。それは最大公約数や制度や恩恵やどんな行政手法や理念を以てしても全き解決はなされない。しかし、だとすればこそ、税金の用途を付託された行政権者は、絶えず、批判にさらされ、耳を傾けなければならない。

杉田は、むしろ、マイノリティの生きづらさが制度面から解消の方向を向いているのか、制度を厳しくチェックし、そうでないならば、立法により解決を図らなくてはならない。それがlawmakerの果たすべき役割です。

税金を使うのは、当たり前なんです。杉田に、その、税金を使う誰かの代弁者になれとは、だれも求めていない。ここには「おまんこ野郎」「おちんぽ女将」(尊称です)「おまんこおちんぽが頭に付着しているのか」(これは悪口です)といわざるをえない、何かしらの根本的な倒錯がある。

(いうと答えになちゃうからいわない。おれは性格わるいんだ。杉田に少しは考えさせないと。考えないと思うけれど。)

引用を続けます。

例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。

ここも同様です。大義名分が立たなければ税金を使えないというのは(だれがいい始めたか知らないが誤った現実主義に過度に依拠した)論理の倒錯です。大義や名分はしょうがなくて持ち出す最終ライン。小さい義のためになぜ論点を精緻化して立法しないのか。ついでに、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療と、少子化対策を直結させる感性もいかがなものかと思う。というか、(狂ってる)。

もうひとつついでに、杉田水脈は、いま現在のこの時点で、杉田水脈に税金から議員歳費が出されている大義も小義も名分も、立つとでも思っているのでしょうか。思っているのでしょう。(あれ、反語にならなかった。)

引用を続けます。

しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない。つまり「生産性」がないのです。

やっぱり、この人は生産性の意味がまったくわかっていない。引用のためにキーボードを打つ我輩の手が、そういって暴れてしまっています。「つまり」で受けているということは、子供を(より多く)作ることが生産性あり、ということになります。よし、おじさん、仕事の手を止めてオフィスラブに興じてパコパコしちゃう。

そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

ここはいい。ここは、税金投入云々は擱いて、杉田さんはLGBT政策をもてはやすマスコミ(例えば、朝日新聞でしょう)が間違っていて、だからそうしたマスコミに押される政治家が勘違いしてしまうのだと、素朴な嫌悪感を表明していらっしゃる。

好きだ。杉田さん、「産経さん、ありがとうございました」というツイートを削除した杉田さん、貴方の今回の寄稿で示した「リベラル」を批判したかの図式は、多くの方が直観されているように、そっくりそのまま貴方に当てはまる。叙述からもそのことが裏付けられました。おめでとうございます。

*

また、明日書きます。

くーちゃん (´;ω;`)

くーちゃんがうちにきてくれて3年が過ぎました。

くーちゃんと初めて会った日のことを僕はよく思い返しています。

dk4130523.hatenablog.com

圧倒的な孤独と、その正体をいまだ捉えることのできない寂しさを、船橋の高架線の辺りまで僕は携えて帰ってくることがあります。けれど、くーちゃんは、そんな僕の内面のことを知らない。くーちゃんは僕の孤独や寂しさを知らないし、僕はくーちゃんには「孤独」や「寂しい」といった語彙を聞かせません。

くーちゃんはいつも変わりません。たまに、出張で家を長く(といっても数日だけど)空けて帰ってきたときには、拗ねたような、甘えたような声を出してくれます。

家にいるときは、くーちゃんは割と、僕のそばに居たがってくれるかな。

tanpopotanpopo.hatenablog.com

くーちゃんを看取るときが来たら、僕は再び、あの漆黒の孤独に落ちることになります。いまの日々の生はそれに向けた馴致、トレーニングであろうとも思います。いま私は何気なしに馴致ということばを用いましたが、

kotobank.jp

人間が動植物を飼育栽培し,繁殖させることをいう。家畜,家禽などはその結果である。現在の家畜はいずれも有史以前に野生の動物を馴らしたものと考えられているが,その起源や経過は不明なものが多い。犬が最も古く,旧石器時代といわれ,新石器時代で牛,羊,青銅器時代で馬,有史以後においては七面鳥,あひるなどといわれる。植物における馴致は栽培で,穀物,野菜などはその結果であって,起源は新石器時代といわれる。

デパートの屋上の庭園の植物は、古くから人類が孤独を飼いならすために行ってきた象徴のような訓練、そのひとつの流派が、私たちの時代にあの形となって現れたものではないでしょうか。そうでなければ、見る人に悲しみの記憶を呼び起こさせる理由に乏しいでしょう。

くーちゃんと同じお墓に入り、その土の上にはまたたびの木を植えてほしいと願います。

やっぱりさ、

やっぱりさ、冷静になって思い返したんだけど、これ、いつの日か、おれがホマレ姉さん (id:homare-temujin)のところを訪ねて、半生&就農物語を聞いてノンフィクション書く流れじゃない? いや、冷静だよおれは(笑)

www.e-aidem.com

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(03)

追記:

katsumakazuyo.hatenablog.com

勝間さんが戦っていらっしゃいます。

私は勝間さんのことが(特にはてなに入植される前)は嫌いでした。いまでも好きかどうかは微妙です。ただ、本件は支持します。きっと、何かおっしゃって(ブログで意見を表明して)くださるのではないかと思っていました。地道な、一字一句の引用と解釈は、引き続き微力ながら当方が担当致します。

(追記以上)

*

おはようございます。今日、会社休み(代休)なのを忘れていました。

さて、前回の記事で、杉田水脈さんが専門家に委ねるべき歴史認識の下地を、ずいぶんと雑な手付きで断じていることを見ました。また、その思考(とも呼べないものですが)様式には、たとえば丸山真男が指摘し戒めてきた「素朴な実感信仰」風の型が見て取れることを指摘しました。余った勢いで、福田恆存の保守とはずいぶん変質した、けえど保守には、杉田水脈さんのような「おまんこ野郎」「おちんぽ女将」(尊称です)を許容してしまう甘さがあるかもしれないと、自らを戒めるよすがとしました。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(02) - illegal function call in 1980s

*

引用を続けます。

どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。

掲題書P.58

(もはや乾いた笑いも出てきませんが、)いちおう、刻んでおきます。

  1. 日本のマスメディアとは誰のことを指しているのでしょうか。朝日ですか。具体的に何年何月何日のどの記事でしょうか。
  2. 「欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです」これは、何かをいった風で何もいっていない論調の典型です。LGBTに関し、杉田さんは、欧米と日本の社会構造のどこがどのように異なるのか、本論ではほぼまったく言及していません。前回の記事で引用した箇所で、キリスト教社会とイスラム社会に関する同性愛迫害の「杉田史観」を披露してはいらっしゃる。しかし、社会構造の話はなさっていない。

引用を続けます。

LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。

掲題書P.58

かなり問題箇所に迫って参りました。

  1. これ、LGBTの当事者の方のnはいくつですかね。その聞いた話のソース、資料、一覧が、今回の寄稿論文に付いていれば、説得力を持つ部分です。勿体ない。もしあるのなら、読んでみたいです。もしあるのなら。
  2. 「社会的な差別云々」(A)、「自分たちの親が理解してくれない」(B)、どちらにより重み、つらさを感じるかは、それこそ感じ方の多様性の最初の一歩です。杉田さんは、意図的か無意識にか、無知か、品格のなさか…により、論点を(B)に寄せ、歪曲なさっているように読めます。
  3. 「親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています」「子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける」。信じていない(信じていることを押し付けない)親、ショックをあまり受けない(ショックを受けたにせよ理解を深めて許容していく)親は、排除、同じ社会を生きながら埒外、でしょうか。

掲題書P.58

引用を続けます。

これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。

掲題書P.58

  1. 杉田水脈さんの根本的にダメな点が凝縮された箇所の一例です。LGBTの方々、ということは、仮に自分がLGBTでなくても、私たちが、ある社会を「生きやすい」「生きにくい」と感じる感じ方は、感受性の自己決定権(人権の基底、あるいは近代的人権以前に遡行するかもしれないもの)の初歩です。これは、譲ってはならない。杉田水脈にも、自民党にも、えだのんにも、小池晃にも、だめです。
  2. 杉田さん、あなたいくら阿呆でも一応はlawmakerなのだから、「制度を変える」ことをはなから度外視することはその部分に関しては職務放棄でしょう。上記(A)「社会的な差別云々」に目を伏せる姿勢と、首尾一貫した愚かさです。その、制度を所与のものとして、制度内で生まれた、子を生んだ親、そして子が、(いろいろと悲しみはあるけれども)「この社会に生まれてよかったかどうか」そこに、耳を傾けようとした自民党議員がかつてはいました。幻だったかもしれません。

引用を続けます。

リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。

掲題書P.58

  1. 「メディア」の論点のすり替えを口にしながら、杉田水脈さん自身が教育への論点のすり替えをなさっている、実に見事な箇所です。
  2. 「そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです」は、先に引いた、「欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです」と、質的にはかなり似通っていて、素朴な杉田社会観の披露に過ぎません。

www.youtube.com

生産性云々ももちろん重要な点ですが、私は杉田さんはそもそも、中山恭子ら同調者(仲間内)と「そうだよね」「そうだよね」と実感ベースで首を振り、頷き合い、そうして理性的な議論や意見を異にする者との対話(それこそが社会の多様性の理論基盤を静かに用意するものです)を(黙って/見ないふりをして)拒否する、それこそが、国会議員たる資格を決定的に欠くところだと強く感じます。

そして「にっぽん~がんばれ~♪」。

だから、あんな寄稿論文になるのです。

杉田さん、がんばるのは貴女です。もっとも、無理だとは思っています。

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こんな具合に、まだまだ、「生産性」に入らずとも、杉田水脈さんの思考様式は、こんなものではなくもっと杜撰だという話ができる論文です。続き、明日書きます。