illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(05)

前回の続きです。世の動きや流れがどうあれ読み進めていくことは大切です。

dk4130523.hatenablog.com

引用します。

ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすること自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか。それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。

掲題書P.59

一見、Tに理解を示すようで、自己中心的で危険な思考方法です。

    1. ウィキペディアにも何かと問題はありますが、

      LGBTという用語は「性の多様性」と「性のアイデンティティ」からなる文化を強調するものであり、「性的少数者」という用語と同一視されることも多々あるが、LGBTの方がより限定的かつ肯定的な概念である。》

      https://ja.wikipedia.org/wiki/LGBT


      本件は、アイデンティティに関わる問題です。だから、生きづらさ、という問題のベクトルが出てくる。それも多様でマイナーなあり方。以前の記事にも同様の趣旨のことを書きましたが、アイデンティティの自己決定権は、障害(といういいかたも好ましくありませんが)への対応とは、丁寧に切り分けて考えるべきことです。また状況論として、現時点でLGBとTの間に分断線を引く積極的な理由はないというのが私の立場です。ここは論者により議論があろうかと思います。

    2. 前項に付言すれば、切り分ける=オペレーショナルな(操作/処理可能と考える)理性は、杉田さんがおっしゃっているように、(性転換)手術(=オペレーション)に地続きです。性転換手術を推奨あるいは「立国」する発想まですぐではないですか。タイ等を参照して。それより前に、果たして、去勢すればアイデンティティの安寧が戻るか? おーい、司馬遷。わからなければ、見田宗介の次の書物を参照して下さい。 

       

    3. さらに敷衍します。杉田さんの《病気》を「治/直してあげる」「政治家として考えてあげる」発想の型、これを私は前回の記事で「恩恵的行政観」と書いたように記憶しています。だから、「考えていい」という言い方になる。治療行為によって生がよりよくなるなら、その道筋はつけるべきです。けれど、アイデンティティ、それも性アイデンティティは、もっと複雑なものです。わからなければ、福田恆存の次の書物を参照して下さい。

      私の幸福論 (ちくま文庫)

      私の幸福論 (ちくま文庫)

       

引用を続けます。

一方、LGBは、性的嗜好の話です。

違います。より、性的指向の話です。

以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。

これが杉田さんの素朴な実感論です。これ、AO入試で落ちるレベルですよ。まさか政治家がネタではなく寄稿論文でこんなことを平然と書く時代が来るとは。少し真面目に話をすると、杉田さんは、こと性アイデンティティに関して、感受性レベルでは、女子校の内輪ノリからまったく成長していないことがわかろうというものです。

問題は次です。

ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。

アイデンティティを論じる難しさのひとつがここにあります。杉田さんにも少しは考えてほしいので、論点を並べるだけにとどめます。

  1. 「普通」「非普通」の二分法自体が、古くは1960年代のマイノリティの目覚め、リブ、サブカルチャーといった、反メジャー、非普通の側から長く水面下で問われ続けてきた。この背景の先に、こんにちの今回議論しているような問題がある。「普通」を雑な手付きで印籠のように取り出すことは、半世紀以上の退行にほかなりません。

  2. 一見「普通」に見える(制度的)恋愛や(制度的)結婚を維持しつつ、性アイデンティティの問題を抱える個人やパートナーシップや配偶者のあり方が、杉田さんにかかってはあっさりと切り捨てられている。ひとくちにLGBTは人口の7から8パーセントですか。よく引かれる比喩のとおり、左利きや、AB型の血液の人と同様の構成比です。杉田さんは、高校時代から、目は付いていても何も見てこなかったということです。

  3. いま現在も同じです。演説に出た先の票田の、13人から14人にひとりは、いまでも杉田さんの目に入っていないことになる。立法者としてこれは問題だし、政治(集票)センスとしてもダサいし、まさにこのようにして「普通」に覆い隠されて「ないもの」にされることが、この問題の本質のひとつということが杉田は判っていない。

引用を続けます。

マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

  1. 第1回の精読時に書きました。どの新聞の何年何月の何面の記事ですか。思うところがあるのならマスコミ(朝日かな)と公開討論をおやりになればいいのに。

  2. 私は、異性愛であっても「普通でない」恋愛のほうがむしろ(どちらかといえば)楽しいと思うし、同性愛の「普通でなさ」は、こと文化や文学には、滋味掬すべき彩りがあると思う。実生活にあっても、オフパコはいけないと思うけれど、(以下脱線気味なので略)。

  3. 個人が《それ》を幸と感じるか不幸と感じるかは、杉田さんが決めたり、口出しをしたりしていいことではありません。Twitterで遊んでいる穀潰しが、思い上がりにもほどがある。

*

多様性の先に、個としても社会総体としても幸福(の増量)がある。そう、いまなお信を置く勇気をもつことができるかどうか。たかが極東の島国の人口動態や財政難なんて関係ない。理想を見据える際に、ときに、そう言い切る蛮勇をもてるかどうか。

杉田さん、貴方の決定的におまんこチキン野郎である所以は、例えばそこです。

明日、また書きます。(みなさんがガツンとおやりになる中、私はちまちまと小出しに、意地悪く論文読みを続けていきたい所存です。)