illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(03)

追記:

katsumakazuyo.hatenablog.com

勝間さんが戦っていらっしゃいます。

私は勝間さんのことが(特にはてなに入植される前)は嫌いでした。いまでも好きかどうかは微妙です。ただ、本件は支持します。きっと、何かおっしゃって(ブログで意見を表明して)くださるのではないかと思っていました。地道な、一字一句の引用と解釈は、引き続き微力ながら当方が担当致します。

(追記以上)

*

おはようございます。今日、会社休み(代休)なのを忘れていました。

さて、前回の記事で、杉田水脈さんが専門家に委ねるべき歴史認識の下地を、ずいぶんと雑な手付きで断じていることを見ました。また、その思考(とも呼べないものですが)様式には、たとえば丸山真男が指摘し戒めてきた「素朴な実感信仰」風の型が見て取れることを指摘しました。余った勢いで、福田恆存の保守とはずいぶん変質した、けえど保守には、杉田水脈さんのような「おまんこ野郎」「おちんぽ女将」(尊称です)を許容してしまう甘さがあるかもしれないと、自らを戒めるよすがとしました。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(02) - illegal function call in 1980s

*

引用を続けます。

どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。

掲題書P.58

(もはや乾いた笑いも出てきませんが、)いちおう、刻んでおきます。

  1. 日本のマスメディアとは誰のことを指しているのでしょうか。朝日ですか。具体的に何年何月何日のどの記事でしょうか。
  2. 「欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです」これは、何かをいった風で何もいっていない論調の典型です。LGBTに関し、杉田さんは、欧米と日本の社会構造のどこがどのように異なるのか、本論ではほぼまったく言及していません。前回の記事で引用した箇所で、キリスト教社会とイスラム社会に関する同性愛迫害の「杉田史観」を披露してはいらっしゃる。しかし、社会構造の話はなさっていない。

引用を続けます。

LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。

掲題書P.58

かなり問題箇所に迫って参りました。

  1. これ、LGBTの当事者の方のnはいくつですかね。その聞いた話のソース、資料、一覧が、今回の寄稿論文に付いていれば、説得力を持つ部分です。勿体ない。もしあるのなら、読んでみたいです。もしあるのなら。
  2. 「社会的な差別云々」(A)、「自分たちの親が理解してくれない」(B)、どちらにより重み、つらさを感じるかは、それこそ感じ方の多様性の最初の一歩です。杉田さんは、意図的か無意識にか、無知か、品格のなさか…により、論点を(B)に寄せ、歪曲なさっているように読めます。
  3. 「親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています」「子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける」。信じていない(信じていることを押し付けない)親、ショックをあまり受けない(ショックを受けたにせよ理解を深めて許容していく)親は、排除、同じ社会を生きながら埒外、でしょうか。

掲題書P.58

引用を続けます。

これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。

掲題書P.58

  1. 杉田水脈さんの根本的にダメな点が凝縮された箇所の一例です。LGBTの方々、ということは、仮に自分がLGBTでなくても、私たちが、ある社会を「生きやすい」「生きにくい」と感じる感じ方は、感受性の自己決定権(人権の基底、あるいは近代的人権以前に遡行するかもしれないもの)の初歩です。これは、譲ってはならない。杉田水脈にも、自民党にも、えだのんにも、小池晃にも、だめです。
  2. 杉田さん、あなたいくら阿呆でも一応はlawmakerなのだから、「制度を変える」ことをはなから度外視することはその部分に関しては職務放棄でしょう。上記(A)「社会的な差別云々」に目を伏せる姿勢と、首尾一貫した愚かさです。その、制度を所与のものとして、制度内で生まれた、子を生んだ親、そして子が、(いろいろと悲しみはあるけれども)「この社会に生まれてよかったかどうか」そこに、耳を傾けようとした自民党議員がかつてはいました。幻だったかもしれません。

引用を続けます。

リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。

掲題書P.58

  1. 「メディア」の論点のすり替えを口にしながら、杉田水脈さん自身が教育への論点のすり替えをなさっている、実に見事な箇所です。
  2. 「そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです」は、先に引いた、「欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです」と、質的にはかなり似通っていて、素朴な杉田社会観の披露に過ぎません。

www.youtube.com

生産性云々ももちろん重要な点ですが、私は杉田さんはそもそも、中山恭子ら同調者(仲間内)と「そうだよね」「そうだよね」と実感ベースで首を振り、頷き合い、そうして理性的な議論や意見を異にする者との対話(それこそが社会の多様性の理論基盤を静かに用意するものです)を(黙って/見ないふりをして)拒否する、それこそが、国会議員たる資格を決定的に欠くところだと強く感じます。

そして「にっぽん~がんばれ~♪」。

だから、あんな寄稿論文になるのです。

杉田さん、がんばるのは貴女です。もっとも、無理だとは思っています。

*

こんな具合に、まだまだ、「生産性」に入らずとも、杉田水脈さんの思考様式は、こんなものではなくもっと杜撰だという話ができる論文です。続き、明日書きます。