illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

北条裕子「美しい顔」に関する7月9日コメント精読

精読します。人が未熟だろうと真摯に頭を垂れているときには丁寧に読むのが作法です。また実際にとても考えさせられることが書いてあります。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/20180709_gunzo_comment.pdf

講談社さん、ぬるいPDFパスワードでありがとう。あと北条さんに公に頭を下げさせて自分たちは保身ですか。誠にいい度胸だ。二度と買わない。

*

この度、「美しい顔」という拙書において、参考文献未掲載と、参考文献の扱い方という二点において配慮が足りず、その著者・編者と取材対象者の方々へ不快な思いをさせてしまったことを心からお詫び申し上げます。

これ、正確には3点よね。被災者や読書家のハートを深く抉った。あるいは作家ワナビーにこの程度でいいと思わせたことを含めて4点。

「美しい顔」はその執筆にあたり、主要参考文献を始めとする当時の報道やさまざまな映像資料に示唆を与えられました。すべての参考文献を読んでまず感じたことは、著者・編者の方々がいかに大変な苦労で現地に向き合い、膨大な時間とエネルギーを費やして作品を仕上げたかということでした。現地で傷ついた当事者に向き合い、長い時間をかけて信頼関係を結び、話を聞くということは気の遠くなるような粘り強さと対象への情熱が必要なことで、また取材対象者である被災された方にとっても重い口を開き話をするというのはとても苦しいことであったと思います。さらにはそれを書籍という形にして出版する際には葛藤もおありだったろうと思います。

業界内で詫びるのは最初の礼法ですね。しかしだとしたら講談社にも非はあるだろう。いまとなっては、だが、このコメントが出されたいまとなりては、北条さんひとりに背負わせる講談社の体質が問われる局面に移行する。

私はその関係者の方々の思いや労力に対して抱いている敬意を表明するために、参考文献一覧を小説の末尾に載せたいと考えていました。しかし、この作品がもし新人賞を受賞し、単行本を刊行できるようなことがあれば、その時にそれをすれば良いと思い込んでしまっていたのは私の過失であり甘えでした。なぜ新人賞応募時に参考文献を明示しなかったのか、そのことを今とても悔いております。結果的に参考文献の著者・編者、さらには現地の取材対象者の方々に、敬意と感謝の気持ちを伝えるどころか、とても不快な思いをさせてしまうことになりました。大変至らなかったと反省しております。

こういう見え透いたことはおじさんどうかと思うな。子供が夏休みの宿題をやらなかった言い訳じゃないんだから。どんなときだって、参考文献を添えなかったら、大学の単位だって取れない。ゆってないと思うけれど編集者がそう唆したんだとしたらそう書かないと(書けないか)。

また、参考文献の扱いへも配慮を欠いたことも猛省しております。いくつかの場面においては客観的事実から離れず忠実であるべきだろう、想像の力でもって被災地の嘘になるようなことを書いてはいけないと考えました。その未熟な判断が、関係者の方々に不快な思いをさせる結果となりました。大変な思いで綴られたご著書を軽率な気持ちで扱ったのだとお思いになられたとしても、いたしかたなかったと自覚しております。

これもだめだな。「想像の力でもって被災地の嘘になるようなことを書いてはいけないと考えました。」そうじゃないんだ。嘘だって構わない。被災者が読んで、「これは嘘だが、この嘘はありだ。本当の話だ」と感じたらそれでいいという筋は成り立つんでないの。いまだって、閖上には、幽霊が出るっていう。北条さんは、被災者が切実に必要とする作り話をすべきだった。想像力の力で戦うのであれば(それは被災者に媚びることを意味しない。被災者は全日本人であり全世界かもしれない。そこへと通底する道を切り開く力こそが想像力なのでは)。おれが「この嘘はありだ。本当の話だ。ノンフィクションの敗北だ」と思ったら、そっちの陣営に回ってたさ。

でも、この間、そっちの陣営は評論家の先生方が大半で、旗色は悪かったろう。在野の読者の眼力を侮ってもらっては困る。おれたちベトコンはノンフィクションだろうが小説だろうが何だって嗅ぎ分けて読む。おれたち特攻野郎!

私は自身の目で被災地を見たわけでもなく、実際の被災者に寄り添いこの小説を書いたわけでもありません。そういう私が、フィクションという形で震災をテーマにした小説を世に出したということはそれ自体、罪深いことだと自覚しております。

そのとおりだ。罪深いというか、はっきりいえば、愚行だ。愚行中の愚行。寝かせた想像力の中で戦って、勝利を確信してからでなきゃ、今後はやってはいかんのじゃないかと思うよ。【PR】おれだって下手なりに15年寝かせてやったんだぜ。よよん君、ごめんな。https://kakuyomu.jp/works/1177354054886329995【PR終わり】

それでも私には被災地をテーマに小説を書く必要がありました。

うんうん。おれもそうだった。そうだろう。一旦は信じることにする。

なぜなら私には震災が起こってからというもの常に違和感があり、またその違和感が 何年経ってもぬぐえなかったからです。理解したいと思いました。主人公の目から、あの震災を見つめ直してみたいと思いました。それは小説でなければやれないことでした。

ブッブー。ダウト。いろんな方法があるんじゃないのか。だからみんな思い思いのやり方でやってる / やってきたんじゃないのか。ノンフィクション、写真、フィルム、小説、あるいは、黙して語らないこと。祈ること。別の形で、寄付やボランティアを続けること。などなど。「小説でなければやれない」だなんて、おじさんは思い上がりだと思います。

例えばその違和感のひとつは、自分が東京からテレビで見ていた3.11と、当事者が現地で体験している3.11は同じものだろうかということ。現地にいる人と、こちらから「被災者」と呼んでいる人は同じ人であったろうかということ。

違和感を抱えるのはいいと思う。けれど、確かにどんな小説も違和感を出発点の近くに携える、置き石にするのはいいとして、それを生のままで小説に書きなぐる(多くの部分は書きなぐったようにしか読めなかった。それが演出効果として女子高生ロックとしては不徹底に感じた。すまんこ)のは、また別の話でしょう。

また、数え切れない喪失体験の連続であった被災地に対して、どう考えればよいかわからなかったというのもひとつです。それをわずかでも理解しようとする試みが、ひいては、人間が生きる上で絶対に避けては通れない喪失体験というものと、どう向き合って乗り越えていくかということを考えることになるかもしれないと考えました。

うんうん。ひょっとして、北条さんには、311とは別の、切実な喪失体験があるのじゃないか。モデル稼業は辛いのかね(押切もえちゃんと対談だ!)。その、固有切実の喪失体験を、そのままに掘り下げる道筋の先に、311へと続く(かもしれない。やってみなければわからない)わずかな薄明かりが、見えてくる。それが現代文学のひとつの到達点ではなかろうかのう。

人間を理解してみたかったからです。小説の主人公を作り上げることでしか理解しえない、理解しようと試みることさえできない人間があると信じました。そしてその理解への過程、試みが、人の痛みに寄りそうことにもなると信じました。それが「美しい顔」という小説になりました。

さあ、ここどうする、船橋海神(おれ)。21世紀の平成も終わろうという今時分に、武者小路じゃねえんだからと笑って斬り捨てるか。それも黒い武者小路。いや、よしとこう。理解、したいよね(急に弱腰)。ただ、いきなり The Human というのは、難易度が高すぎやしないか。むしろ小説はその高邁なお題に対して、瑕疵の大きすぎる舞台装置でねえべか。ろくすっぽ寄り添ってねえし(最後の1ダースの憤怒)。

しかしこのようにして自分が表現したかったことを表現するならば、同時に、他者への想像力と心配りも持たなければなりませんでした。大きな傷の残る被災地に思いを馳せ、参考文献の著者・編者を始めとした関係者の方々のお気持ちへも想像を及ばすことが必要でした。

うん。もう責めまい。

私の物書きとしての未熟さゆえに、関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまったことを、改めて深くお詫び申し上げます。

やっと認めたか、という気持ちと、もう責めまいという気持ちと、けれどやっぱり、その未熟は本人が一生(銘々の作家生活を賭けて、という意味)をかけて掘り下げ、満たすほかにない、辛いよね、という気持ちが交錯しています。私も未熟のまま生を終えるのでしょう。

*

ここ数日、私のブログにしては異常ともいえるPV/日がありました。甘いといわれるだろうけれども、我が軍はこれで撃ち方止め。「美しい顔」は、ちらちら、ここには可能性が眠っているのかしらんと感じさせる表現がありんした。それは確かなことです(芥川賞候補には足りない)。干物屋のお婆さんのこと、作中できちんと回収してあげてね(甘い飴をふたり分もくれたんだから)。

ま、せっかくだから、明日以降も気が向いたら「美しい顔」読んで何かしら書くよ。ちょっと丁寧めにね。では。

マイお題:「311の後に心を満たした曲は何ですか?」

blog.hatena.ne.jp

*

このたびの西日本を中心とした水害には、みなさまが一日も早く日常に復帰されることを願ってやみません。私も、自分の持ち場で持ちこたえようと思います。早速、土日にあちこちから飛んできた情報の整理と把握が職場で始まっています。

*

さて、掲題のお題でストーリーを募集します。みなさんの話をお聞かせください。

私は、Bank Band with Salyu「To U」でした。News23のテーマ曲であったことは後に知識として知りました(筑紫哲也の話などはなから聞く気がしません。まーた、そういう…不幸にも…黒塗り…谷岡…)。

www.youtube.com

この間、話題になっている北条裕美さんの「美しい顔」に、不足している大きな要素のひとつで(もありま)す。お題に参加して下さったからといって不用意に言及したり、まさか論ったりなどするつもりはありません。その反対です。単に、私が話を聞きたい。

どうぞ、よろしくお願いします。

北条裕子「美しい顔」雑読(5)

前回に続いて北条裕子「美しい顔」を雑に読むシリーズです。なおめんどくさいので引用は改行や字下げを基本的に省いています。

dk4130523.hatenablog.com

毎日毎日ボランティアの人が私の目の前を行き来してせっせと働いているのを見るたびに私は心の中でどうもすみません感謝しますと思いながらしかし彼らのワッペンに「がんばろう日本」と印刷されているのを見るたびに自分の顔が鬼畜のように歪んでいくのがわかった。私はおそらく、がんばろう希望をもとうと言われることが嫌なのではない。その言葉自体が憎いのではない。そんな美しいものにまでついには唾を吐かなくてはならなくなってしまったこの自分が憎いのだ。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

私が思い起こすに、311から少なくとも611あるいは2012/3/11くらいにかけてはこうじゃなかったです。文字通り「がんばろう福島」だったし「がんばろう日本」でした。それが被災者や被災地個々の思いとは別の《何か大文字》に吸収されていってしまう《いやらしさ》(の萌芽)というのは確かになかったわけではない。けれど―私もずいぶんカブで乗り付けて物資のピストン輸送を少し手伝ったり、地元で崩れた大谷石を積んだりしましたが―憎しみが顔をもたげる暇などありませんでした。

(駅までの10kmの道のりを、和装で、貴金属を放り込んだ箱と思しきものを両手に下げて人の流れの中を歩いていく御婦人の姿をみて、《空襲だ》とあの日の夕方に思ったことを私は覚えています。異世界でした。2年前に自分が書いたものから引用します。)

僕の実家は震度6弱の隠れ激震地区でした。11日の夜に、僕は祖父母から聞いていた空襲の風景を重ねて街の様子を見ていました。印象的だったのは、和装で、高価な装飾品を急ぎ身に着け、同時に背には毛布のようなものを背負い、手には大きなトラベルケースを引いて、駅のほうに歩いていく女性の姿です。電気が止まっていましたから、駅まで幹線道路を10数キロ、行列をなしているその中を、あでやかな着物が夕日に照らされている。見たことのない光景でした。

お前ら X DAY やめて差し上げてね - illegal function call in 1980s

そのような中を科学から支えて下さった早野龍五先生。NHK解説委員の水野倫之さん。江頭大勲位の存在。

dk4130523.hatenablog.com

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私はまっとうな道徳教育を受けてきたつもりでいた。たくさんの良い教師に巡り会い、教え導かれてきたはずだった。それを自信にさえ思っていた。ありがたいもの、感謝すべきこと、尊いもの、それらを知っていたはずだった。人々の善意のなんたるかを理解できるはずだった。しかし生き残るということは鬼畜のように歪んだ自分の顔を自分の目で見てしまうということであった。私はいま、恥ずかしいのだ。生き残ったということが恥ずかしくて恥ずかしくてしかたがないのだ。非常時だからこその助けあい、支え合う気持ち、やさしい気持ち。わかってる。わかってんだよ。わかってるから恐ろしい。自分の浅ましさが恐ろしい。やはり自分のような人間が死ぬべきだったのだと思う。

中二病丸出しの恥ずかしい文章だ…。しかもテーマが311だぜ。然るに、もし、この文章を一旦は受け入れるとして、その思想的帰結は、「ならば恥ずべきはいまこの瞬間では?」ということになりはしませんか。よくまあ女子高生を擬態しているとはいえこんな太宰風味がいけしゃあしゃあと書けるものだ(唖然)。

やさしい海に浮かんでもう一歩も降り立つことのできなくなった私は他にすることもないのでそれらを日ごと眺めているわけである。だが眺めれば眺めるほど息が苦しくなっていき私はこの町がいよいよ怖くなった。怖くなってこのなじみの町にもう一歩も足をつけることができなくなった。自分が生まれ育ったこの町に足を下ろすことができなくなってしまった。私は今でも海の上にいる。あれからずっとトタン屋根の上にのって漂流しつづけている。いつ潮が引くのだろう。

この感覚はわかります。痛いほどよくわかる。けれど、これは311以前の閉塞の感覚のほうがより近く、ふさわしいと私は見る。居場所がない感じ。どこにいっても、平板な、根を失った、氾濫する印刷物、サイネージ、3桁国道のロードサイドの風景からくる圧に視神経と三半規管を歪められていく感覚。私もそれにはずいぶん悩まされました。むしろ、その日常を、切り裂いたのが311でした。あるいは、それ以前の災厄でいえば、村上春樹が比喩的にときおり語っていたように、オウムであり、阪神大震災であったりしました(優れた結実のひとつが「かえるくん、東京を救う」)。

*

少し、今回は真面目に向き合って論じる価値があったのでちょいちょいちくちくやりました。

3点補遺。

  1. 北条さんあるいは「私」の《自分のような人間が死ぬべき》感じ方は、むしろ21世紀に入って311の前に日常を侵食していた感覚ではなかったか。
  2. それを揺れと、続く闇とともに切り裂き有象無象も魑魅魍魎も込みで生に喝を入れた / 救った(ここ点々打って)のが311という側面もあったのではなかったか。北条さんや「私」が自己回復するのとは違った意味で。
  3. 北条さんは「美しい顔」の次、ないし今後の作家テーマとして、お生まれになった1985年から2011年3月10日までを(いまからでもいい。書くとおっしゃるなら私は撃ち手を待たせるに吝かでない)《なぜ北条裕子は「美しい顔」に向かったか》と問う、物語をお書きになったらいいのでは。311とは切り離して、ね。

じゃね。まだ明日以降も雑に読み続けるよw (´;ω;`)

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北条裕子「美しい顔」雑読(4)

前回に続いて北条裕子「美しい顔」を雑に読むシリーズです。

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お婆さんの家は半壊だったから食料が少しは残ったらしかった。何か秘密のものでもくれるみたいにしていつもこうして甘い物を握らせてくれるのだ。弟のぶんと必ず二つずつだった。

お婆さんはそれ以上私に何も聞いてはこなかった。かぎ爪になった指で飴の袋の一つをあけはじめていた。お婆さんのきめの粗くひび割れた指が、唇に当たった。突然の甘さが口中から唾液を呼んできた。ありがとう、と言ったつもりだった。けれど自分でもようやく聞き取れたくらいのその声がお婆さんの耳に届いたようには思えなかった。それでももう一度言い直すことができなかった。お婆さんは三度、亀みたいにゆっくりとうなずいて、それから目を細め、もうひとつの飴を私の手に握らせた。そしてまた腰をゆらしながら歩いていった。

お婆さんは行ってしまい、甘さだけが取り残された。

久しぶりに人と話した、と思った。

話しているときだけ、心の歪んでいく音が止まる気がする。だから誰かと話をしているほうがいいのだろう。

本作、悪いところばかりではありません。ここは、まあまあです。北条さんあるいは「私」は、言葉と、言葉だけではない十全な関係性を希求している感じが伝わってきます。ただ、100点満点で40点くらい。

「キャンデーあがいん」

干物屋のお婆さんだった。シミだらけの拳を差し出してくる。

だがすぐにお婆さんは目を丸くして飴を握った拳をひっこめた。

「なしたって」

お婆さんは折り曲がった腰をますます折り曲げて、つらそうな姿勢で私の顔をのぞいていた。

「あんべ悪い?」

そう言われて私はようやく、自分がかなり酷い顔をしていることに気がついた。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

震災で半壊になった干物屋のお婆さんが「私」に声をかけてくれるシーンです。上の引用箇所の少し前。北条さんあるいは「私」は、挨拶ができないんですね。最低です。最低さを感じさせるだけここの叙述はまあまあだと先に申し上げました。

悪いのは挨拶ができないことだけではありません。「何か秘密のものでもくれるみたい」「亀みたい」みたい、の連呼はいささか筋がよくない。引用はしませんでしたが近くには「銅像みたい」などというのもあります。「心の歪んでいく音」この表現も陳腐。

そして全体に、厚意、親切を向けてくれる(それも、何度も:「いつもこうして」)年配者に対して、際立つのは露悪的な観察眼と沈黙です。だれかと話していたいのに、話しかけられて、会話を成り立たせることができず、剰え、温かみのない細部描写を連ねる。他者や風景は、未熟な自我の自己回復のための具ではありません。具にしたいのなら別に構いませんが、小説観としては古い。判らなければ(あれだって問題のある書物ですが)先ず以て柄谷行人「風景/内面の発見」をお読みになってみてください。

本作を無駄に15回ほど通しで読んだので、これが後半の回復(?)の伏線(?)らしいことは理解しているつもりです。しかしそれだって、作家の視線の卑しさは否定できないと感じました。

こうではない、登場人物の尊厳を保つ書き方がなかったのでしょうか。いい歳をして。これが、上手い、リアルだとお考えなのでしょうか。芥川賞候補にとりあえず持ち上げてみて、次作で判断するのが大人なのでしょうか。干物屋のお婆さんだって被災者のひとりのはずです。

私なら、自分の物語をこうは記しません。そこに限界があることも自覚しています。けれど、実際、結果的に、記しませんでした。

*

追記:

あふれ出してとまらない卑しい言葉の洪水に溺れそうだった。頭が不潔なものでぱんぱんになって裂けそうに痛い。息が苦しい。お婆さんがくれた弟のぶんの飴玉を手の中で握りしめた。絆、希望、助けあい。美しい言葉たちが輸入されてきた。絆、仲間、頑張ろう。清潔な言葉たちが支援物資とともに全国各地から入ってきた。海水が、やさしさを日本全国から運んできてこの田舎町を満たした。

北条さん、あなた被災者じゃないでしょう。あなたの想像力と表現力で代理戦争が可能と思っていますか。一方、干物屋のお婆さん(のこと)は(あなた(の想像力)が)被災者(にした/仕立てたの)でしょう。それで上のような扱いですか。私の中の志賀直哉が激おこぷんぷん丸なのでございます。

カクヨムさんに上げました

本稿は、CAMPFIREへの投稿からの転載です。

カクヨムさんに上げました - CAMPFIRE(キャンプファイヤー)

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ご無沙汰しております。

先刻、カクヨムさんに、本稿一揃えを上げて公開しました。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886329995

CAMPFIREで出資を募り、僅数ながら出版させて頂いた件も「小説情報」に記しました。

みなさまには改めて御礼申し上げます。昨年は、どうもありがとうございました。

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ある(出資者ではない)方から、この話を世に送り出していいものかと、よよん君のお母様や主治医の先生は何と仰っているのかと、叱咤を頂戴しました。それは私がこの15、6年間ずっと考えてきたことでした。

北条裕子さんという方の「美しい顔」のことが、この間に、ありました。私は彼女の執筆姿勢に対し、何ひとつ、まったく賛同しない。あんな震災小説があってはたまったものではない。けれども、彼女のとった行いは私を甚く刺激しました。私はある越えてはならない一線を越えてでも、世に問い、問うて抱えたまま斃れていく、痩せた象の姿をここ数日、思っています。

*

どんな非難を浴びようとも、あの日、私が見た光景は嘘ではなかったと思っています。

私がよよん君のことが一段落するまでに感光したのはわずかに1日やそこらのことでした。血液グループ先生は7か月半の間、身を焦がしていらっしゃった。私は医師ではないから、せめて想像力のうちに、その数十倍を持ちこたえられたらと、15年、16年の間を置いたというのは、そのような意味です。

もういいだろうと、手綱を緩めるのではありません。もう、よよん君のことを、わが手にだけ収めておくのは間違いであると判断しました。私とて、望んだことではありません。私のほかにだれかが書けば、書き手の人柄と力量によっては、資料一式を渡し、消えても構わなかった。けれどなぜか時間の進行はそれを許さなかった。いまでも、訳がわかりません。

*

私が楔を打てば、叩くもの、石礫を投げるもの、お先走り、評論家、いろいろの者が現れてくるかもしれない。少しは、くるでしょう。(けれど)そのようにして、みなさんがよよん君という志半ばで虹の橋を渡った男の子のことを覚えていて下されば、たまに秋の日に思い出して下さるのならば。今となってはそれだけが私の願いです。

血液グループ先生が願ったのもそのことでした。

*

2018年七夕

船橋海神

北条裕子「美しい顔」雑読(3)

前々回ならびに前回に続いて北条裕子「美しい顔」を雑に読むシリーズです。

dk4130523.hatenablog.com

編集され切り取られた映像だけじゃリアリティーを感じることができないくらい想像力に乏しいからわざわざ現地に来ちゃったわけだ。こんな冠水した土地に、わざわざ足を運んだわけだ。だけどお前は今こうして私に睨まれて、その重たいカメラを顔の真ん中に貼りつけて顔を覆い隠しているんじゃないか。そのレンズを通してしか私のことを見れやしないんじゃないか。私のことを生で見ることはできずにそうやって機械の目で盗み見ながら、ボクは今こいつであなたの辛い気持ちを汲み取っていますからね、ボクは今この悲惨な現状を何とかしなきゃととても深く考え入っていますからね、とそういうポーズをとってみせているんじゃないか。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

この部分は、本作の出だしの罪深さ(北条さんが表明しているのとは違う意味で)を象徴した箇所です。

  1. 職務上の理由で現地に足を運んだカメラマンの「青年」を一方的に断罪できるのか。
  2. 現地取材を怠った作家が被災者の「私」を借りてそのような「マスコミ」に代理戦争をけしかけることの是非は。
  3. 1か0かで「悲惨な現状を何とかしなきゃ」と(本当に)深く考えている人と、ポーズをとっている人の2類型に分ける作家の営みとは。
  4. 女子高生なら、このような発想が許されるのか。女子高生は、納得、共感するのでしょうか。
  5. 想像力を問うているにも関わらず、レンズを通してはじめて見ることのできる世界に想像が及ばないとはどういうことか。

1は視野狭窄と一方向的、2は怠慢と筋違い、3は思考停止、4は類型的で差別的な感性によるものです。5はこれらに薄く広くかかるものでしょう。そして1も2も3も4も5も、現地に行って確かめようという内的動機を着火起爆するはずのものでした。北条さんの登場以前には。それをこの人は安直に踏み越えてしまっている。

本作を冒頭から読み下してきて、この部分は最初に決定的に、作家(北条さん)が被災者や被災地を置き去りにしていると強く印象づけてくれる箇所として読みました。いかにも昨今の芥川賞候補作にふさわしい叙述、内的マスターベーション。象徴するものとして引いてみた次第です。

*

さらに罪深いのは、本作の前半ここから数ページにわたり、上記を風景や人物の描写に転換した一人称が続くことです。どのフレーズをとっても、入念な取材、インタビュー、裏打ち、事実、といったものに支えられていないで書いていいものとは、私には到底思えません。それは盗作や剽窃や引用以前の問題です。作家の想像力が生の形で問われる。だから、その怯え、恐れ、警戒心、抑制を前に挫折した想像力は、事実でないにせよ事実により近いものを求めてノンフィクション(現場)に向かう。私のことです。

北条さんは書く姿勢、古い言葉でいえば作家としての倫理、思想が根本から間違っているように私には見えます。読売は日頃ひどい叙述が多いですが、この日(7月4日)には我が意を得たりと、悲しい気持ちになりました。

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ここからは北条さんとは関係のないひとりごとです。

作家の想像力は、みんなの想像力を代弁するものです。多くの人が、あるいは少しの人が、こうあってほしい/ほしかったと思う願い、祈り、諦め、絶望、といったものを、たまたま、書き留める力を(幸か不幸か)携えてしまった人の、救われることのない責務であったはずです。託し、託される関係というのが、かつてはあった気がします。

星に願いを

今週のお題「星に願いを」

無菌の国のナディア

997 :Qoo:02/10/06 00:11 id:nf5kx7mP1さんは、今頃あちらでこのスレをマターリ読んでいるのでしょうね。。 
1さん、どうもありがとねっ!! 

998 :安らかに:02/10/06 00:16 id:ufLXc4L1::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::★::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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999 :ありがとう:02/10/06 00:33 ID:1KY6klkt…∴…・。. ☆・ 
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★∴゚・。・。・。・ 永遠に忘れないから・・ 
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1000 :卵の名無しさん:02/10/06 00:42 ID:8OMSYKap1000ゲトは、1さんの最後のレスで! 

534 :1 ◆DFVNdaek :02/07/02 13:17 id:Mrn6DZQX 
こんんちは、1 ◆DFVNdaekです。 
今落ちている点滴が終了すれば、移植前処置終了になります。 
少し吐き気が目立つのと、痛み止めの点滴の副作用のせいか 
手がぶるぶるふるえて力が入らなかったりするのがつらいです。 

入室は明後日の4日の午後2時くらいになるとのことでした。 
ノートPCは持ち込み駄目ーということなので、繋ぐことはおろか 
中の状態を記録して一気にUPしようと思っていたのですがそれも 
きつそうです。メモ用紙にあったことなどを記録しときますね。 
3~4週間くらい2chも覗けないことになってしまいそうです。ううう・・・。 

まだ後2かありますが、無菌室でもマターリと回復まって、治る力を信じて 
がんばってきますね。絶対自分の白血病は治るんだー。治るぞー。 
元気になって退院するぞーと。 

まだまだつらい副作用なでがでてくるでしょうが、負けません。 


1001 :1001:Over 1000 Threadこのスレッドは1000を超えました。 
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。 

*

kakuyomu.jp