illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

北条裕子「美しい顔」雑読(3)

前々回ならびに前回に続いて北条裕子「美しい顔」を雑に読むシリーズです。

dk4130523.hatenablog.com

編集され切り取られた映像だけじゃリアリティーを感じることができないくらい想像力に乏しいからわざわざ現地に来ちゃったわけだ。こんな冠水した土地に、わざわざ足を運んだわけだ。だけどお前は今こうして私に睨まれて、その重たいカメラを顔の真ん中に貼りつけて顔を覆い隠しているんじゃないか。そのレンズを通してしか私のことを見れやしないんじゃないか。私のことを生で見ることはできずにそうやって機械の目で盗み見ながら、ボクは今こいつであなたの辛い気持ちを汲み取っていますからね、ボクは今この悲惨な現状を何とかしなきゃととても深く考え入っていますからね、とそういうポーズをとってみせているんじゃないか。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

この部分は、本作の出だしの罪深さ(北条さんが表明しているのとは違う意味で)を象徴した箇所です。

  1. 職務上の理由で現地に足を運んだカメラマンの「青年」を一方的に断罪できるのか。
  2. 現地取材を怠った作家が被災者の「私」を借りてそのような「マスコミ」に代理戦争をけしかけることの是非は。
  3. 1か0かで「悲惨な現状を何とかしなきゃ」と(本当に)深く考えている人と、ポーズをとっている人の2類型に分ける作家の営みとは。
  4. 女子高生なら、このような発想が許されるのか。女子高生は、納得、共感するのでしょうか。
  5. 想像力を問うているにも関わらず、レンズを通してはじめて見ることのできる世界に想像が及ばないとはどういうことか。

1は視野狭窄と一方向的、2は怠慢と筋違い、3は思考停止、4は類型的で差別的な感性によるものです。5はこれらに薄く広くかかるものでしょう。そして1も2も3も4も5も、現地に行って確かめようという内的動機を着火起爆するはずのものでした。北条さんの登場以前には。それをこの人は安直に踏み越えてしまっている。

本作を冒頭から読み下してきて、この部分は最初に決定的に、作家(北条さん)が被災者や被災地を置き去りにしていると強く印象づけてくれる箇所として読みました。いかにも昨今の芥川賞候補作にふさわしい叙述、内的マスターベーション。象徴するものとして引いてみた次第です。

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さらに罪深いのは、本作の前半ここから数ページにわたり、上記を風景や人物の描写に転換した一人称が続くことです。どのフレーズをとっても、入念な取材、インタビュー、裏打ち、事実、といったものに支えられていないで書いていいものとは、私には到底思えません。それは盗作や剽窃や引用以前の問題です。作家の想像力が生の形で問われる。だから、その怯え、恐れ、警戒心、抑制を前に挫折した想像力は、事実でないにせよ事実により近いものを求めてノンフィクション(現場)に向かう。私のことです。

北条さんは書く姿勢、古い言葉でいえば作家としての倫理、思想が根本から間違っているように私には見えます。読売は日頃ひどい叙述が多いですが、この日(7月4日)には我が意を得たりと、悲しい気持ちになりました。

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ここからは北条さんとは関係のないひとりごとです。

作家の想像力は、みんなの想像力を代弁するものです。多くの人が、あるいは少しの人が、こうあってほしい/ほしかったと思う願い、祈り、諦め、絶望、といったものを、たまたま、書き留める力を(幸か不幸か)携えてしまった人の、救われることのない責務であったはずです。託し、託される関係というのが、かつてはあった気がします。