illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

苦手を克服するには(広岡達朗曰く)

海老沢泰久「みんなジャイアンツを愛していた」の中で、広岡達朗が次のように話すシーンがある。

(で、あらかじめ予防線を張るつもりで告白するが、これは、私が仕事や学習で何かを身につけようとするときの、20年来の基本姿勢になっている。同時に、私にとってこれは単に方法論の話というだけでなく、ここから浮かび上がる海老沢泰久や、彼の描く広岡達朗のものの感じ方が、それくらい好きだという、そのことに触れたいがために書いたことである)。

広岡は基本ということについて、たとえばノックに対する考え方をつぎのように語っている。

「選手を右に左に走らせて面白がっているコーチがいるが、あのやり方は派手に見えたり、いかにもコーチが仕事をしているように見えるだけで、本当にいいノックとはいえない。ノックの目的というのは、選手からゴロに対する恐怖感をとりのぞくことなんですから、基本は正面に強いゴロを打ってやることなんです。ゴロに対する恐怖感がなくなって、その選手にちゃんとしたフットワークがあれば、左右のゴロはいくらでもとれるようになるんです」

 海老沢泰久広岡達朗の790日」(『みんなジャイアンツを愛していた』)P.90-91 

ノックの目的というのは、選手からゴロに対する恐怖感をとりのぞくこと」。まったくその通りで、私はいまでも英語が、日本語のコミュニケーションというのが、怖くて仕方がありません。みなさん、好き勝手をおっしゃる。

たかが、ビジネスとはいえないような、作業、ルーチンのレベルで、多くの方が技をかけてくる。実にめんどうくさい。そうした思いを、20年以上、してきました(論理の不徹底、漏洩、逸脱、加えて保身)。しかも、発せられる日本語は、特に敬語と助詞において、破綻が目につく。発した当人は平然としていらっしゃる。

広岡達朗がどうだったか知りませんが、想像するに、似たような、野球界、巨人軍における何かから、1本の線を取り出した、その苦闘のエッセンスという感じがして、私はこの一節が大好きです。ずっと、折に触れて口ずさんでいます。

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引用を続けます。

「それが分らずに左右に走らせるノックばかり打っていると、選手は最後にはつらくなるもんだから、ノックに対してやまをかけるようになる。ヤマをかけてゴロをとるのを覚えさせたって、選手のためには何の役にも立たないんです」

前掲書P.91

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英語の、日本語の、上達法についても、同様のことがいえると思います。私も1,000人以上の生徒さんを見てきましたが、英語を苦手とする子、あるいは大人は、「正面の強いゴロ」を苦手にしていることが多い。正面の強いゴロとは、あくまでも受験界隈においてということですが、私の見たところ、語彙(覚えている単語数)と、発話/音読の絶対量です。分からない、口に出すのが怖いんです。知らないし、自信がないから。

そこに、「なになに学習法」というのは、広岡達朗が指摘するように、何の役にも立たないと、そういうことになるわけです。

したがって、私は、英語が苦手だといって学習塾や予備校に入ってくる生徒さんに、絶対に妥協しない。1日10でも20でも30でも、英単語を覚えさせ、音読させて、保護者の方にサインをもらって、提出させます。

半年くらい徹底して、それでもだめな生徒さんも、たまにいます。これは仕方がない。現代日本の学校制度、教育制度に、こと英語に関しては向いていない。別の道を進むことを選択肢としてお伝えします。

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そもそも、だれもがグローバル資本主義に対し、最適化を図る必要はないわけです。平たくいえば、目黒駅からAmazonのオフィスへと向かう朝の葬列に並ぶのは、全国でも限られた人です。違う生き方(苦しいかもしれないけれど)をする余地は、まだあります。

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基本の話でしたね。広岡達朗の至った慧眼は、とりわけ、基本とは何か、コーチをするとはどういうことかという観点で、多くの示唆を読者に与えてくれます。「正面への強いゴロは、怖い」。このことを認める勇気、そして、だからどうすればいいかを、1960年代にすでに考え抜いていた広岡達朗の着眼は、いまなお、幅広い視座を提供してくれると思います。

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以上、このひとつ前の記事の背景でした。

今からでは間に合わないTOEIC対策(今回は読解のさわりと心構えのみ) - illegal function call in 1980s