illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

あるプロフェッショナリズムの話(1)

仕事、あるいはプロフェッショナリズムの話をちょいとだけします。

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カープ高橋慶彦が日本プロ野球史上最高の遊撃手であることは論を俟たないと思われます。それは上手い、ヒットや盗塁を量産したからではない。高橋はときどきエラーをする。頻繁に盗塁死をする。それでいて上手い。その振幅の大きさが見るものに《高橋が眠らせている》《まだそこにないもの》を予感させる。つまり女だったら立ちどころに抱かれてしまうだろうとわたくしは力説している。

海老沢泰久高橋慶彦を好んだというのはわたくしにとっては意外だった。おそらく海老沢を捉えた核にあるものは、高橋の《ある部分》だったろう。

高橋が教えてくれたところによると、二軍のほかの選手と一緒にグラウンドへ行ってチームの練習をする。ウエスタン・リーグの試合があるときは試合をする。彼の練習がはじまるのはそのあとで、合宿に帰るとそのすぐそばにあるバッティング練習場へ行って、一人でバッティング・マシンが打ち出すボールを三時間ほど打ちつづける。バッティング・マシンは、あらかじめボールを入れておくと自動的にそのボールを打ち出すようになっているので、一人でも練習ができるのである。それから彼は夕食をとり、夕食がすむとまた練習場に戻って二時間打つ。そして最後は合宿の部屋に喉ってバットの素振りを一時間おこなうのである。

「それを三百六十五日、毎日やったんです」

と高橋はいった。「まあ、異常でしたね」

海老沢泰久「秋の憂鬱(高橋慶彦)」文春文庫『ヴェテラン』P.235-236所収)

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今回このぼくの記事では引用しませんが、たとえば落合博満西本聖大下弘、みんな、若手の一時期にはこういう時期をすごしています。それから、みなさん国語や道徳の教科書を読みすぎか読んでいないかで想像が難しいでしょうが、カープ入団後まもない(~1968、9)衣笠祥雄というのはとにかく遊び歩いていた。成績も伸び悩んでいます。頑丈な身体を持て余したのに加えてのスピード狂。夜な夜な走り暴れ回っていたといいます。

それを改心(諦念)させたのがコーチだった関根潤三さんです。関根さんは柔和な表情のイメージがありますがとにかく球界で1、2をあらそう怖しい方らしい(大好きです)。1970年のあるとき衣笠が関根コーチの課した素振りをサボって夜の街に繰り出して明け方に合宿所に戻ってきた。関根さんを含めみんな寝ていると思っていると玄関の前にバットをもって腕組みをした人がいて、にっこり「おかえり。やろうか」と声をかけられたとか。

衣笠の連続試合出場記録は関根さんがコーチに就任した1970年の秋に始まっています。1970年10月19日。ぼくはこれをひそかに「衣笠祥雄の10.19」と呼んでいます。かれの打撃成績も翌1971年から目に見えて伸びている。

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「まあ、異常でしたね。コーチの人にも、体をこわすからもうやめろと何度もいわれましたよ。でも、ほかにやることもなかったんです。だって年俸が百二十万だから、月に十万でしょう。合宿費を払って、グラブやスパイクを買ったら、もう三万か四万しか残らないわけですよ。給料日が二十五日だから、そんなもの、もうその月のうちに使っちゃって、新しい月にはいったら一銭もない。外で遊ぼうかと思ったって、出て行けないわけですよ」

(前掲書P.236)

カープは1975年の初優勝のあと少し反動の時期を迎えます。関根さんと同じ年に関根さんに次いで球界で怖しいと称される根本陸夫さん(大好きだ)が招聘した広岡さんも、もはやカープにはいない。監督の古葉竹識さんが手綱をゆるめたというのではありません。わたしはむしろ黙っていてもヨシヒコのような練習の虫がひとりでにぽつぽつ出てくる当時のカープの空気、土壌というものこそ、根本さんが残し、古葉ちゃんが守ったものだと思います。

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自分の話をします。

ぼくは転籍転ポジション(昇格)をしてから1年間は毎朝6時に出社して8時30分までにその日ひとりでできる分の仕事は片付けようと決めました。社長にも担当役員にも初回の面談時に宣言した。いま営業部長兼経営企画部長の職にあります。きつい(実にきつい。会社はホワイトだがおれはブラックである。うむ。そのメンタルの揺れは鳥の世界などでみなさまの気分を害し眉をひそめさせることもあろうかと思います。申し訳ない)。

しかし2017年9月から半年、これを続けてぼくはうれしかったことがある。きのう社長秘書が「メンヘラさん(ぼく)が出た会議はそのあとで何となくみんな笑顔になります」「みんなメンヘラさんがきてくれてよかったと思ってます」「社長が《あの男は不思議だ》と話していました」とこっそり伝えてくれた。

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同じ海老沢泰久がヨシヒコと同様にやはり若いころに練習の虫で鳴らした西本聖のドラゴンズ移籍後デビュー戦のことを、彼、海老沢の最大の持ち味である、抑制しつつ万感を込める例の筆致で記しています。

1989年4月12日のスワローズ戦のこと。結果を先にいえばその日のゲームは延長12回に4-3でさよなら負けを喫します。セカンド仁村徹の不運なエラーによるものでした。西本の前年ジャイアンツ最終年度のシーズン成績は64イニング3分の2を投げて4勝3敗。多くのファンや評論家が西本限界説に傾いていました。

その、7回裏のことです。

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七回裏のスワローズの攻撃を抑えて、その日何度目かのアンダーシャツの交換のためにベンチ裏へ出ると、ベンチのほうで新しいチームメイトたちが口々に何かいい合っている声がきこえてきた。彼らは西本には信じられないことをいい合っていた。

「西本さんがいいピッチングをしてるんだ。なんとかして西本さんに勝たせてやろうぜ」

西本は感激した。彼はジャイアンツでは攻撃陣のそういう声をきいたことは一度もなかった。西本が投げているときばかりでなく、江川が投げているときでも同じだった。ジャイアンツの選手は誰でも勝たねばならないとは思っているが、誰かのために何かをしようとは誰も思っていないのだ。

 (「嫌われた男」前掲書P.49-50)

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西本はこの89年に初の、生涯ただ一度の20勝を記録します。

今回のテーマでいえば、西本を支えたのは、若い時分、多摩川にあるよみうりランドの練習場まで、往復の電車の中をつま先立ちで鍛えたハムストリング(当時は必ずしもそうは呼ばれていませんでしたが)だったとわたくしは信じています。

そして付言すれば、そのようなプロフェッショナリズムを西本に叩き込んだのは、プロ選手としては不遇不運におわった兄の西本明和でした。明和の練習量には広岡さんも同期の三村敏之も舌を巻いたという話が今日まで残っています。

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(この記事は熱烈なカープファンと音に聞く id:kozikokozirou さんと、敬虔なドラゴンズファンに違いない id:kash06 さんへの日頃の謝意のために構想された節がある。ヨシヒコの話は今回書ききれなかった続きがあるのでお楽しみに)

ヴェテラン (文春文庫)

ヴェテラン (文春文庫)

 

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