illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「許し合わないままでいる」ことについて

広岡達朗川上哲治の話をします。id:kozikokozirou さんの一連の思いのこもった記事に触発されました。

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広岡が1978年にオリンピック・エンゼルスの監督として、それまで「ドンケツ」と揶揄されていた球団をかき回し、選手たちの尻を蹴飛ばしてジャイアンツとの壮絶なデッドヒートの末に優勝をもぎ取った話は知られていることと思います。私も何度かこのブログで書きました。

全裸監督 村西とおる伝

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監督 (文春文庫)

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しかしその道のりは平坦ではありませんでした。古株の反発、エースの気弱、広岡自身の迷い。そういったものの中で広岡は「誰かに自分の心が、サインが覗かれている」という奇妙な感覚に襲われ、取りつかれます。3月末に始まる快進撃から3か月が過ぎた7月のことだったと記憶します。監督が迷ってはチームが勝てるはずがありません。

迷った広岡はかつて自分を愛するジャイアンツから追い出した川上の家を訪ねます。そこで二人は野球の話をします。自分が誰かに覗かれている気がするということも率直に川上に伝えます。あれこれ話した後、二人は遺恨をすべて許しあったわけではないのですが、互いに流れる野球に対する共通した考えを発見します。

それは野球は勝つためにするものということでした。固有名を挙げればそしてそれは二人が父のように仰ぐ正力松太郎の精神のために。この部分は「監督」ではさらっと触れられているにすぎませんので、よろしければ「みんなジャイアンツを愛していた」のほうを参照してください。

対話を終えて広岡を送り出すときに川上はいいます。

「君ならできるよ」

広岡の不安がどう解消したかは「監督」という物語の肝の外せない1つですので、言及しません。ぜひ上掲の2冊をお読みいただければと思います。

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川上は広岡にずいぶんと手ひどい仕打ちを行ってきています。まず、入団6年目に主将に任じられた広岡に、(おそらく自分と似たものを感じて)「反主流派」のレッテルを貼り、ジャイアンツを追い出したこと。

1970年頃、根本陸夫に請われてカープのコーチに転じる前、評論家として活動していた広岡がジャイアンツの海外キャンプに取材に訪れた際には、選手たちに暗に広岡には接触するなと指示したこと。

80年、長嶋の監督不適任が明らかになり後任が取りざたされたとき、その筆頭の1人に挙げられた広岡よりも家庭ぐるみで付き合いのあった藤田元司を推したこと。並行して(自らは遂に認めませんでしたが)ジャイアンツの球団社長あるいはGMに就こうとしたこと。それには広岡が邪魔だった、邪魔だったとまではいわないにせよ、広岡を監督に据えたらかつてのように衝突が目に見えていたから疎んじたこと。

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そのような経緯があったにもかかわらず、広岡は迷ったときに川上の元を訪ねます。繰り返し記しますが、二人はそのことですべてを許しあったわけではなかった。けれど、川上は「君ならできるよ(苦境を乗り越えられる)」と伝えます。

(ただ、このシーンはおそらく史実ではなかろうと思います。しかしそれでも、だからこそ、海老沢泰久は挟み込みたかった。僕はそう解釈(ほとんど確信)しています。)

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そして、川上は川上で、広岡にエールを送ったことを記さなければフェアではないでしょう。82年、広岡がライオンズを日本一に導いた年の正力松太郎賞選考委員の筆頭格であった川上哲治は、次のように述べたと海老沢泰久は伝えています。

「初めから、この賞に値する働きをした野球人は広岡ただ一人だと私は思っていた」

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正力松太郎という(いささか問題があるにせよ)父として仰ぐ存在の跡目争いを行う、長兄と次兄。川上と広岡にはそんな関係が見て取れると思います。意地悪くいえば、川上は、広岡がジャイアンツで川上的に振る舞うことは許さなかった。よそ(ライオンズあるいは千葉ロッテ)で川上的に振る舞うことには寛容だった。もちろん、僕は広岡さんの側に立つほうです。

広岡は野球人生の終生ジャイアンツのことだけを思っていた。そしてそれがジャイアンツで、報われることはなかった。そここそを、海老沢泰久は彼=広岡の人生の中でもっとも取り上げるべきこととして大切に扱い続けた。

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海老沢は、彼にしては珍しい若いころの自伝的エッセイで次のように記しています。

ぼくは茨城県の田舎で生まれ、1960年代の終りに常磐線に乗って江戸川を渡り、東京に出てきた。私立大学に合格したというだけで、そのときのぼくには何もなかった。自分の匂いのする部屋もなければ、ぼくを知っていてくれる友だちもなく、ぼくのための町もなかった。ぼくは自分の力だけで自分を矜持しなければならなかった。それは自分で信頼できるもうひとりの自分をぼく自身のなかに発見することだった。そしてそういう姿勢は10年が過ぎたいまでも変らずにつづいている。何かに手がかりを失ったとき、しっかりしろ、とバカみたいに自分を叱咤するのはそのためだろう。

dk4130523.hatenablog.com

海老沢が父親との関係を直接的に表した部分は見たことがありません。しかし、どうも何かしらあった匂いがする。それは肉親という意味での父というのではなく、社会というパターナリズム、それへの反発、だったのかもしれません。

ただ、あえてわが身に引き付けていうのならば、僕は肉親を理解し、その上で全き許し合いをするのではなく、許し合わないままに別の道を自分の足でしっかりと歩み進んでいく先にこそ、何か新しい地平が開けてくるように思います。わがことを思い返してみても、それは心の平穏にもつながり得るはずだと感じます。

申し遅れました、id:kozikokozirou さん、みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。