illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ノーアウト1塁2塁の光芒(海老沢泰久さんの命日に寄せて)

1950年にうまれた海老沢泰久が10代のおわりに上京したときの心象風景を、およそ10年後に振り返って次のように記している。 

 ぼくは茨城県の田舎で生まれ、1960年代の終りに常磐線に乗って江戸川を渡り、東京に出てきた。私立大学に合格したというだけで、そのときのぼくには何もなかった。自分の匂いのする部屋もなければ、ぼくを知っていてくれる友だちもなく、ぼくのための町もなかった。ぼくは自分の力だけで自分を矜持しなければならなかった。それは自分で信頼できるもうひとりの自分をぼく自身のなかに発見することだった。そしてそういう姿勢は10年が過ぎたいまでも変らずにつづいている。何かに手がかりを失ったとき、しっかりしろ、とバカみたいに自分を叱咤するのはそのためだろう。

 長島茂雄が東京に出てきたのは1950年代だった。彼もぼくと同じように千葉県から京成線で江戸川を渡ってきた。だが、彼は何ものも持たぬ寂しい若者ではなかった。彼は佐倉一高時代に大宮球場でそれまでだれも見たことがないような大ホームランをかっとばし、ジャイアンツを含むプロの数球団からスカウトされていた。結局それを振り切って立教大学に進んだのだが、これも野球部に誘われてのことだった。彼はすでに多くの人間に望まれていたのだ。自分で探さなくても彼は自分が何者であり、そしてどれくらいの価値があるかじゅうぶんに知らされていたのだ。すでに彼は何者かであった。

 「ジャイアンツが敗れた」(『みんなジャイアンツを愛していた』文春文庫P.53-54。なお原文の年代表記は漢数字である)

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海老沢は自分のことをめったに語らない。エッセイを除く著作で自分のことを直接的に語ったのはここだけといってもいいくらいだ。彼は1978年のスワローズ初優勝の軌跡を――広岡達朗ジャイアンツとの終生にわたる関係を通奏低音として――描いた『監督』で一躍世に知られるのだが、ここに引用した『みんなジャイアンツを愛していた』は時系列的にその前夜にあたる。ただし海老沢が10代のおわりにここに記しているように長島のことを意識していたとは考えにくい。

彼は上京からおよそ5年後の1974年に新人賞をとり、さらにその5年後に『監督』を執筆、刊行する(1979年3月)。それはちょうどジャイアンツと長島にとって難しい時期にあたっていた。海老沢は愛するジャイアンツの歴史を視野にいれざるをえない。それは長島と自分の10年間を振り返ることと同義だった。このときにはじめて長島が英雄ではない同時代性を帯びた人物として、「何もなかった」若者の視野角にはいってきたのである。いまでもしっかりしろと自分を叱咤しつづけている海老沢は、どうやらそうではないようにみえる(あるいは叱咤しつづけているにちがいないがどこかで道を誤ってしまった)かつての英雄に、とどくことのない諌言、逆焔をむけている。そのさまに胸を衝かれる。

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ところで、僕は栃木県の近郊で育ち、1990年代の初めに東北本線宇都宮線などとよぶのは浅ましい知恵である)に乗って利根川を渡り、東京に出てきた。大学には合格したもののそのときの僕にはほとんど何もなかった。とうぜんながら長島茂雄よりも海老沢泰久の事情に圧倒的に近い。

しかし僕には後学の利があった。僕の手元には『監督』も『みんなジャイアンツを愛していた』も、『スローカーブを、もう一球』もあった。東京に出れば地方にいるよりもはるかに多くのアマチュアスポーツマンたちと知り合って、ひょっとしたらその伝手で海老沢さんや山際(淳司)さんにも会って話を聞くことができるかもしれないと、そのことに希望を託していたのである。

13歳のときに父親の書棚に『監督』(当時は新潮文庫)を発見した僕はまるで源氏物語に耽る孝標女のようにスポーツノンフィクションを漁ることをおぼえた。その日から僕にとって海老沢さんは何者かであった。第三の新人たちの文体とはあきらかに異なる、硬質の渋い光をたたえるダイヤモンドのような味わいがそこにはあった。僕はどのような修練と叱咤を積み重ねればそんな文体に辿り着けるのか知りたくなった。海老沢さんなら会って尋ねれば答えてくれるのではないかとなぜか思った。好き好きでいえばそのころから僕は51対49かそれ以上の比率で山際さんのファンではあった。同時に、彼の文体は相談して鍛えることでどうにかなるようなものには思えなかった。海なし県が(山際さんの出身地である)横須賀の空気を備えることは手の届くことのない夢だと子供ながらに直観したのだ。わがことながら慧眼、英断といわねばなるまい。

茨城県真壁町出身の海老沢さんにとっては失礼な話だと思うが、とにかく、18歳か19歳の僕はそんなことを考えていたのだ。作新学院に近いところで育ったひとりとして、江川卓の投手としての力量と彼や彼の周囲の大人たちがやったことをどう捉えたらいいのかも訊いてみたかった。

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海老沢はノーアウト1塁(あるいは1塁、2塁)の守備側の動きを好んで描く。 

 たとえばランナー一塁で相手がバントで攻撃してきたとする。この場合、まず一塁手三塁手と投手が打者の目前まで猛烈にダッシュする。そして二塁手が一塁、遊撃手が二塁、三塁は捕手がそれぞれカバーリングする。なによりもランナーを二塁で殺すことが目的なのだが、もし結果的にバントが成功したとしても、打者とランナーにこのシフトが与える心理的な圧迫には計りしれないものがあるだろう。だが、だれかひとりでもこのシフトに忠実でない野手がいたとしたら、これほど危険なシフトはない。どこかのベースがひとつか、あるいはふたつ、ガラ空きになってしまうのだから。

「みんなジャイアンツを愛していた」(前掲書P.21-22)

海老沢はこのプレーを、決定的な場面でおそらく現実に目にしている。それは昭和47年に戦われたジャイアンツ対ブレーブス日本シリーズ第4戦、9回裏のシーンである。シリーズはここまでジャイアンツの2勝1敗、スコアは3対1でジャイアンツがリードしている。しかしそれまで力投していた関本四十四がついにブレーブス打線につかまる。まだノーアウトで塁上には1、2塁にランナーがいる。

 ブレーブスとしては、やろうと思えば何でもできるチャンスだったが、2点差の9回というイニングを考えれば、まずバントで同点のランナーを2塁に送るというのが最良の策で、ジャイアンツとしてはそれがいちばんいやだった。

 日本シリーズ史上に残る有名なプレーが実行されたのは、この直後である。はじまりは、ベンチから出た川上の球審に対するつぎの声だった。

 「ピッチャー、堀内」

 スタンドがどっと沸いた。いまや堀内のフィールディングのすばらしさは、日本シリーズに足を運ぶくらいの野球ファンなら誰でも知っていたので、堀内の登場によってつぎの展開が俄然波乱に満ちたものとなったのである。西本(幸雄監督。引用者注)は、2塁のランナーがサードで殺される危険を冒してまでバントのサインを送るだろうか。それともバントをあきらめて強攻策に切りかえるだろうか。

「最高のシーズン」(『ただ栄光のために――堀内恒夫物語』新潮文庫P.227-228)

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このシーンはフィクションの中でも形を変えて活かされている。昭和53年4月1日の後楽園球場。開幕カードである。ジャイアンツ対エンゼルスのイニングは7回表。エンゼルスが0-1でリードを許している。好投の堀内をエンゼルス打線がようやく捉えかけたところだ。

打順は9番のヘミングウェイ。架空の球団エンゼルスにこの年はいった本格派の外国人投手である。ファーストネームはチャーリーという。文豪アーネストとの関係は残念ながら記されていない。 

 無死1、2塁。はじめてのチャンスらしいチャンスだった。ヘミングウェイにかえてバントのうまい打者を送ることを広岡は考えた。堀内はフィールディングがうますぎる。下手なバントでは3塁で確実に殺されるのが明らかだった。しかし、リリーフ投手のことを考えて頭を痛めた。しばらく迷っていると長島がベンチを出てマウンドに歩いていくのが分った。ほっとした。ここは広岡の作戦を予想して、ピッチャーは堀内でなければならない。しかし替えるだろうと広岡には思われた。長島は守ることより、ここで抑えきってしまうことしか考えていないにちがいない。

 <さあ替えてくれ>

 堀内以外なら誰でもよかった。彼よりフィールディングがうまいピッチャーはいないのだ。普通のバントをすればランナーはきっと進塁できるだろう。やがて堀内がしぶしぶマウンドを降り、新浦の名前がアナウンスされた。広岡はヘミングウェイをそのまま打席に送ってバントさせた。

 『監督』文春文庫P.194-195

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二十歳ごろの僕は、いつか海老沢さんに「『監督』のこのシーンはブレーブスとのあのゲームの裏表ですね」とじかに確かめてみたいと思いながら本と旅を重ねていた。そのころちょうど、海老沢さん、山際さん、それから彼らの周囲にいたライターやスタッフがなじみにしているバーが銀座にあるらしいという噂が聞こえていた。正確な場所や店名までは伝わってこなかったけれど、東京で学生生活をすごし、編集や出版の仕事につくことができれば、界隈でいつか会うことは不可能ではないと思えた。 

 ぼくが山際さんに最初に会ったのは、ちょうどこのころだった。たまたま同じ雑誌に原稿を書いていて、その雑誌の編集者に紹介されたのである。じっさいそのころの山際さんは、つぎからつぎへとじつに精力的にいろんな仕事をこなしていた。

 一方、ぼくは山際さんと反対で、仕事はなるべくしないようにしていた。それはいまも変わらないが、書くことの苦しみを思うと、書くまえにいやになってしまうのである。

 それからしばらくして、ぼくはある出版社から、プロ野球の人気球団をいくつか選んでファンブックのような文庫本を作りたいから、そのうちの一冊を担当してくれと頼まれた。山際さんもべつの球団の担当を頼まれていた。

 あるとき、山際さんに会ったので、ぼくはこの仕事は気がすすまないので断るつもりだといった。すると山際さんはわずかに年下のぼくをたしなめるようにいった。

 「エビちゃん。仕事はどんな仕事でも断っちゃ駄目だよ。一緒にやろうよ」

 ぼくはその仕事をやることにした。むろん山際さんにそういわれたからである。

海老沢泰久による「解説」(山際淳司『ウィニング・ボールを君に』角川文庫P.319-320)

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ふたりの出会いは1980年か81年の話だと思う。ここでいわれている同じ雑誌とは文藝春秋のNumberであり、ファンブックとは新潮文庫の「プロ野球グラフィティ」シリーズのことである。83年版と84年版が刊行され、海老沢さんはライオンズを、山際さんはタイガースを担当している。僕は「プロ野球グラフィティ」を10歳くらいで手にして、いらい背の部分がくたくたになるほど読んできたのだが、尊敬する2人が若いころに担当していたシリーズだとは長いあいだ知らずにいた。

 山際さんとは銀座のバーでもよく会った。そういうところでも、山際さんは気負った態度をとったり、必要以上に騒ぎ立てたりすることはなかった。いつも、じつに何気ない態度で、静かにすわっていた。ぼくのことはずっと「エビちゃん」といっていた。いまでもときどきその声と笑顔を思い出す。

 同P.323-324

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95年5月に山際さんが亡くなってから、僕の目標には海老沢さんに思い出話を取材することが加えられた。その海老沢さんも2009年8月13日に急逝し、僕の夢は夏の雲の向こう側に永遠に失われてしまった。自分のために物語を紡いでくれる人たちはもういないのだという現実と折り合いをつけるのに、ずいぶんと長い時間がかかった気がする。