illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

くーちゃんはいつもおれのそばにいてくれて。少し離れたところから黙って(たまに自己主張をなさって)見守ってくれていて。船橋の道を歩いていて、くーちゃんのことをずっと思っていて、ことばにして書き留めておきたいことはたくさんある。おれはあのまま宇都宮の外れに育って、歩いて通える距離の農業短大にそこそこの成績で入ってそこそこの成績で出て、植木屋になる人生がよかった。植木屋になったらくーちゃんと出会っていない。植木屋になってくーちゃんと出会っていたらよかったのかと思うと、それも違う気がする。くーちゃんと出会わなければおれはとうに船橋の桟橋から身を投げていた。くーちゃんのお世話をするようになってからも、足が一人でに海のほうに向かい、このまま...と思ったことは数えるほどにある。おれがいなくなったらくーちゃんは生きていけない可能性が高い。だから引き返したのでもない。くーちゃんを引き受けた際に「慈しんでくださいね」と保護主さんからいわれた。おれは「はい」と返事をした。たいていの約束は反故にして屁とも思わない。けれど、くーちゃんのこと(だけ)は守ろうと思った。「慈しむ」は、くーちゃんとの約束ではない。いうなれば天啓天籟(てんらい)の類か。おれは天(天命)と契約した。海水面に移った月や建物の光とおれは契約をしていない。首を動かして辺りを見渡す。おれが契約した者(相手方)は天のみか。だから引き返したのとも違う。くーちゃんはおれの三只眼吽迦羅に近い。おれは更生した。桐島聡にねこはいなかったか。おれはそれが知りたい。だれもそんな問いかけをしないが。後年(行動後)の彼にねこがいたことに賭けてみたい気はする。思想や行動はねこの前に(容易く)敗北する。ねこを忘れたときに人は行動に走るのだろう。桐島聡を三島由紀夫に換字してもらってもちろん構わない。