illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

黄金頭さんへ / ものわかりとは何か

黄金頭さんが「自分がもっとものわかりの人間だったら」という趣旨のことを呟いていらした。このことについて少々。

ものわかり=もの+わかり。「わかり」は古語「わ(分。別)く」に由来する自動詞。「わく」の有名な例としては紫式部(百人一首57)「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」。せっかく久しぶりにお会いしたのに、お会いしたのがあなたであったのかどうかわからないままに。文法的な話を続けるなら「わく」は自動詞で自ずからAとBが区別される、「ものわかり」の「わかり」も自動詞で、終止形は「わかる」(自動詞)。「わける」(他動詞=主体の能動的作用)ではない。

以上から、「ものわかり」とは、《複数のものA, B, C,...それぞれが自然と「分かつ」》作用が、認識者に働くこと。あるいは認識者においては、そのような(受け身の=自然体の)認識能力のこと。

 

現代は「こと」(理。ことはり)優勢の世の中です。個別具体的な違いに目をくれず、表皮だけをなぞって抽象の位相だけで論破だなんだやる。それが大衆受けする。おそらくそれは多少、頭の回りがよければ一定程度までは楽な生き方です。けれど、そう遠くない将来に内側から破綻する。そのことを象徴的に語ったのが例えば漱石夢十夜」の「自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」ではないでしょうか。明治の特に前半期はとにかく欧米に追いつけ追い越せで「理」を早飲み込みし、日本に当てはめようとする傾向が見られます。空回りの激走ですね。その矛盾が不可逆的な露呈を示したのが日清日露と産業革命の重なる明治30年代でした。個が内面を掘り下げる文学が、さまざまなバリエーションを伴って隆盛します。当世にも似た趣があるやに感じられます。坂の上に雲はなかった。このまま走ったら「ないのでは」という予感が文学者の内面を引き締める方向に作用したのだと僕は見ています。

 

話を戻して、もちろん、僕は黄金頭さんが「ものわかりがよくない」などとはつゆ思っていない。話は逆です。「こと」で押せる人が「ものわかりがよく」見える時代というだけです。ものはもの。ことはことです。「こと」は演繹ですね。一般原則を措定してAもBもCもDもあてはまる。はい論破。対して、「ものがわかる」というのは、帰納法に依りながら、依ると見せかけて、帰納法的証明に足を踏み入れない。あくまでも個別具体的な1つ1つの「もの」を見つめて、書き留める精神の働きです。それが連綿たる、紫式部竹取物語以来の、「物語り」作家の精神だと思います。

 

同時に、「もの」は極めようとすればするほど、「ものわかりのよさ」とは逆方向に、重し、自制となって働くのかもしれません。黄金頭さんは草花がお好きですね。本も酒も好きですね。自転車も。それらはすべて「もの」とそれを受け止めて刻もうとする(=journal)認識者/記録者たる黄金頭さんの力です。「こと」=空回りしたことのほうには、向かわない。世界の理を語ろうとするときにも、実に謙抑的に、「わからない」「わからない」と仰っしゃりながら、ご自身の体験(ものごと)を通してから、刻むでしょう。それにそもそも、ものは多い。ものの数だけありますから。当たり前ですが、ことよりも、もののほうが多い。ひとつひとつを誠実に刻もうとしたら、とても間に合いません。

 

かくいう僕も黄金頭さんの「こと」や黄金頭さんの書く「もの」が「わかる」などとは、とてもいえない。でもね、いうんですよ。世界はひとりではない。いうというのは、ことさらに書く、伝える、メッセージ性のことを指すのではありません。文字通り、船橋の町を歩いて、声に出してみる。「にゃーん」「世界はひとりではない」。その反響が、確かであれば、自分を裏切ることはありません。言霊は決まって当人に返ってきます。黄金頭さんの暮らしや行く先や文学的成否のことは、とてもわからない。そりゃわからないですよ。それでも、「にゃーん」「世界はひとりではない」と口にしてみる。そのときの瞬間の勇気が、いま、ここにあるべき、文芸評論のいち形態だと僕は思います。ご参考まで、ここに書いたようなことは、見田宗介現代日本の感覚と思想」が1985年頃に捉え、僕なども感化を受けた、その蒔かれた種の、30年以上後になってかろうじて芽を出した(僕にとっては実りある)帰結です。斯く、ものごとはなかなかわからない / わかるようにはならない、ものです。

 

公開後に付記します。親が子に「あなた/この子はものわかりがいいね」などといいます。あれはインチキ呪文です。子がそんなに「わかつ」ことができるほど「もの」に接しているわけがない。子に「こと」(説教)を吹き込んで、子が目の前の事象(もの寄りのこと)に適用するさまを見て、親や社会にとって都合のいい方向付けをする、おまじないです。お察しかと思いますが、僕は子供のころからいちいち「いや、おれわかってないけど」と内心で逆らって、大きくなりました。目の前に、漢学、キリスト教マルクス主義という3つの理(こと。ことはり)が闊歩しているような家庭だったからかもしれません。僕が好きなのは畑仕事をするばあさんの後をついて、ひとつひとつを手にとって教えてもらう野や畑の花でした。その大切な花々の名の記憶も、上から社会という名の泥をかぶせられ、いまでは定かではなく、某(それがし)終生の悔いとしています。

 

2022/9/26

船橋海神