illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

アイデンティティを問うということ

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

(黄金頭さんを推薦する趣旨です。僕ではありません。推薦作品は当然の――)

わいせつ石こうの村(黄金頭) - カクヨム

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アイデンティティを――近現代の日本の知識層にあって――問うということは、本質的に、一貫した、変わらない、地味で孤独な――その問うという作業の本質を内在的に問うならば、個としてしかあり得ない――ものです。

アイデンティティのあり方、昭和→平成→令和を追う - シロクマの屑籠

外部要因を頭から否定するものではありませんが、変わらないもののほうに軸足を置き、同じように「おれ」(漱石)「己」(中島敦)に踏みとどまった先人の姿を認識し、そこに学び、自らを重ねることが、すなわち自己同一性です。僕にとってはたとえば漱石です。黄金頭さんの姿は、僕には車谷長吉に見えます。

ダサい作業です。エゴイスティックな。報われません。救いもないでしょう。時間の無駄です。僕には、無駄でした。後悔がほぼ98%。残り2%のうち1%は反時代的な精神の煌めきです――もし、あるとすれば。もう1%は少数の者への手紙を、少数の者と自分は確かに取り交わしたのだという刻みです。

自分と似た作業を自分よりも洗練されたスタイルで――それも、より高いところで――続けている人がいる。信じられない。うれしくてウホウホいってしまう。わいせつ石こう職人の下地は、このようにして形作られるのかもしれません。

ひたすら少数の者のために手紙を書くがいい - 関内関外日記

車谷長吉のこと(黄金頭さんのこと) - illegal function call in 1980s

僕はシロクマさん的な視角を文人として否定します。時代やアイデンティティのメタに立てる人はいない。自分の無為に終わりかけている実践から得た揺るぎないものです。立った、立ち得たというのは皮相上滑り(漱石)でしょう。

一方で、シロクマさんが黄金頭さんを例の寄稿先で何となく気にかけてくれているらしいことにはいつも深く感謝しています。友情は個人のものです。時代のものではない。どんな外部環境や時代のもとに生まれた、生まれ変わったとして、僕は黄金頭さんの姿を、シルエットを探します。彼はそれだけ偉大な同時代の文章家です。

というわけで、酒を贈ります。贈る理由は、いつだってあります。李白と孟浩然のように。

夏目漱石 私の個人主義