私が2001年1月1日に入籍を、3月に結婚披露宴を強行したのは、もっぱら、母親のためでした。
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私は当時27歳で証券会社に専門職として勤め、データ分析と、Oracleのグローバル導入/展開のサポートを行っていました。収入はそこそこありました。
けれど、文学という病に主に精神面をやられ、先行きはほとんど不安しかなく、しかしそのことを知った上で大らかな気持ちで支えてくれるという妻を、長期的に「知らない者どうし二人で生きていく」実質への心もとなさを具体的な方策では解消しようとせぬままに、半ば騙し討ちのようにして入籍に持ち込みました。
披露宴では、式場の透明のドアに、酔った私がそれと気づかずに強かに額を打ち付け、係の方が慌てて取り外すという、その後の私の人生を象徴するかのような事故がありました。
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その式を終え、そのままの出で立ちで、私たち、妻と私と父親の3人は、母親の入院する病院へと向かいました。
母は上半身を起こし、洋装に整え、薄い紅を差し、鬘をつけて私たちを笑顔で迎えてくれました。披露宴の前日までに私と父親で病院の先生と看護婦さん(当時はそのような呼称だったはずです)と、近所のメイクさんにお願いして、整えていただきました。
母はうれしそうでした。ハンカチで目頭を抑え、しきりに「これでもう大丈夫ね」と頷きました。「○○ちゃん(妻のこと)、△△(私)を頼むわね」「はい」。
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病院からの帰りの車は父親が運転しました。母の入院先は宇都宮の旧市街の奥まったところにあります。帰りには駅前を通過する。その駅前に、祖母の入院する病院がありました。私はその足で祖母の入院先に車を付けるものかと思っており、また、そうせぬまでも、「どうする」と私に確認のひと呼吸が入るものと待ち構えていました。
車はそのまま黙って駅を越え、国道から幹線道路に入り、家路へと向かいました。私は聞こえるように舌打ちをし、家に着くなり前のドアを空けて父親に殴り掛かる絵を描きました(ちなみに、駅から家までの間に、枝野幸男の実家前を通過します)。
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殴り合いが済んだ後、私は妻の手を引いて「これからバスで婆さんの病院に向かう。来てくれ」と伝えました。妻は泣いていました。父親は「着替えてくる」といって奥に消えたきりでした。歯を半分ほど欠いたはずです。私は鏡を見ないでも頬が不自然に膨れ、熱く冷たく、内出血していることがわかりました。
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最小限の身支度を整え、小銭を持つと、私はひとりでバス停に向かいました。
バスに乗り、JR宇都宮駅で下りたその足で、公衆便所で顔を洗い、鼻血を拭い、近くのコンビニで買ったTシャツとYシャツに着替え、血のついたそれまでの衣類をくずかごに放り込むと、祖母の元へと向かいました。
母の病院に着いたのが15時半、それからひと悶着あって、祖母の病院に着いたときには19時を過ぎていたと思います。もう18年も前のことですが、帰りのバスを、掲示板で確かめた覚えがあります。
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「婆さん、おれ、結婚したんだ」
「ごめんな」
「お袋、ばあさんより先には行きたくないっていってたけど、あの調子だと守れそうにない」
ばあさんは、背中の褥瘡に貼ったテープがこそばゆいのか、ときおり身を捩らせながら、僕の顔を興味深そうに眺め、頷き、にこにこと笑って、それでも、そのころには言葉はとうに失われていました。
「△△(私の名前)よ、あの状態の婆さんに、この姿を見せてどうするんだ。それくらいわかるだろう」
父親の立論はそこでした。しかし私はそうでないことを知っていました。事業に失敗した父親は祖母の介護を、薄皮を剥ぐように、削っていきました。見舞いの際に病院からそのことを知らされ、私が補うようになると、黙って追認し、そして、黙ったままでした。
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私はひとこと「すまない」と手をついてほしかった。それが出来ずに、外からの理由を持っきて自分に言い聞かせようとするのが、私の父親の生き方、生き様だったと、いま振り返って冷静にそう思います。
その彼にとって婆さんは、わが身の至らなさを象徴、凝縮する、恥のようなもの、だったのではなかったでしょうか。
その気持ちはわからないでもありません。しかし、同時に、婿養子がそれをしたら、ただのたちの悪い、やどかり、乗っ取り、地上げではありませんか。
それに何より、まったく恥とは思わない、私がここにいます。
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別に、事業が回転しなくなることは、いいのです。庭の柏の木の生えた一角を、公道が広がるから手放して現金に換えるなら、それでいいんです。弁護士を雇う金がなくて、土地境界の紛争に負け(てなけなしの金で丸め込まれ)たからって、そんなことは、どうだっていい。(むしろいってくれたなら、おれは好んで共闘する側に立つほうです。)
それをなぜ、そういわないのか。なぜそれらが、全共闘以降の新左翼の退潮に結びつく抽象の語りになるのか。それら左翼的な思潮とは別に、なぜ、いまその場その場で、ありったけの力で現実を見つめ、苦い砂を口に含み、万策を講じようとしないのか、なぜ、土壇場で膝を抱えて固まるだけなのか、なぜ……
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婆さんは、逆でした。学校に上がれなかったときも、嫁いだときも、一切の「外からの理由」を持ってこなかった。「私はこの場で、与えられたように、こう生きる」以外の原理、思惟は、根っから、彼女の芯にはなかったのだろうと思います。
とかく、思索や抽象に流れて現実から逃げがちな私が、踏みとどまらなければいけない、踏みとどまった先に、よりよい生き方があるのだということを、私は確かめたくて、青年期の初期に足繁く、祖母の元へと通いました。
拙い自己分析に過ぎませんが、おそらく、そういうことだったのだろうと思います。
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ちなみにいえば、別れた妻は、私のこのような感受性の形、あり方を、ある意味で危惧していました。何か、私の成長をかなり深い根のところで阻害しかねない、危険因子のように見ていた節があります。
しかしそのことも、今となってはわかりません。
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黄金頭さんの、亡くなったお祖母様はおそらく私の祖母とほぼ同年代です。
三途の川を渡った先で、互いに孫の自慢をし合ってもらえたら。
そんな願いを込めて、滅多に書かない話を残しておくことにした次第です。いちど、お話がしてみたかった。
ご冥福をお祈り申し上げます。