illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0042 足利の話を少々

忘れてしまわないうちに、足利の話など少々。

栃木は大きく、2つか3つか4つに分断されています。政都軍都の宇都宮。学問と文化の足利。那珂川水運の馬頭烏山。そして那須日光。異論や見立てはあるでしょうが、ざっくりそんな様態です。

僕のルーツは宇都宮と足利です。その、中央集権に結び付かない片方、足利が、アイデンティティに織り込まれていてつくづくよかった、なんてことを思いながら、今朝がた船橋の山の手と、川のへりを歩いていました。

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僕の最初の記憶にある物心は、1976年夏の足利花火大会です。8月第2週かな。渡良瀬川にほど近い、いまはない百貨店(十字屋)の屋上に、商工会議所かどこかが桟敷席を設けた。そこに1席を引いて、僕ら家族と親類で見物に行った。宇都宮から、車で乗り付けて、母方の祖父の実家が渡良瀬橋の袂、田中町まで。そこから徒歩。

「どーん」「どーん」

あんなに大きな音が鳴るのを知らなかったから、もう2発3発でガン泣きです。3歳5か月。鮮明に記憶があります。ぎゃーぎゃー泣いて喚いて、帰る帰る暴れて跳んで跳ねてしていました。民主主義のハックですが、だいたいこの技で主張は通ります。

見かねて、爺さんとばあさんが、両の手をそれぞれに、いまでいうブランコ状につないで下げて、だましだまし、打ち上げ元の河原から離れたほうに散歩に連れ出してくれたわけです。そのぐるっと回った先が、鑁阿寺へ、そこからおそらく織姫神社のほうを目指したのでしょう。鑁阿寺の西側に雪輪町、さらにその西北に巴町というのがありまして、ここが花街です。泣きつかれて、ばあさんに負われて坊(ぼん)が目を覚ましたのが、織姫神社のあたりだった、そこから引き返してきたと、後になって聞かされました。

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不思議な思い出があります。

祝いごとや弔い、特に祝いごとがあると、和装できれいに着飾ったお姉さんがたが、席の一角を占めている。「お爺さんのお家にお世話になったから」などといって、包みをくれる。当時僕が5歳、1980年の手前でしたから、妙齢というにはまあその、昭和30年前頃にお生まれの(まだ訪ね歩くには間に合うんじゃないか?という含み、自分への促しです)、芸者さんなのか、商売づきあいなのか、親類なのか…

家族に訊いても、だれも教えてくれない。

ただ、爺さんの生家は、漢学をやる傍らで(食べていけないからね)、明治後年から戦前にかけて渡良瀬で船宿を、小料理仕出しを手掛けていたと聞いています。いま思うに、果たして置屋まで、やっていたかどうか。田中橋のところです。屋号はさすがにご勘弁、ですが、往時、とりわけ昭和初年の足利織(紬?)というのは全国から引き合いが来たと、聞いたことがあります。爺さんが、5歳から10歳のころです。

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もうひとつ、足利の花火大会について。

いまはもう数千vs数千のフィーリングカップル納涼ナンパ大行進の姿になって久しいです。が、栃木の花火大会といえば、宇都宮よりも発祥の早い足利。その、宇都宮と足利の花火大会の大きな違いが、浴衣の柄、帯、着付け、小物、髪型。

この辺、申し訳ない、僕は泉鏡花が読めなくて、着物や女衆の姿がどうしても描けない。だから信じてほしいとお願いするほかにないのですが、坊が小僧となり、多少色気がついて宇都宮から足利に出向くと、その艶やかさに圧倒されます。文化が違います。周りの(違いのわかる)大人たちもそう教え諭してくれた。

いまは、違いが溶けてしまったかどうか。

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そんなわけで、明日、足利の遊郭跡を巡って、目と耳と足と、写真に収めてくるつもりです。もちろんねこちゃんがいるので早朝からの日帰り。つくづく、僕は花街が好きです。このところ吉行淳之介をめくっていて、ああなるほどと、自分の原風景には、花街と、その寂れがあるのは、間違いなさそうです。大正10年生まれの爺さんは、孫の僕がいうのも何ですが、田村隆一に似た男前でした。