illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ばあさんの話

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

おれのばあさんは大正12年9月、先の関東大震災の2週間ほど後に生まれた。三人姉妹の長女で、村の人たちから「仏様のよう」と慕われたばあさんの母親の血をそのまま受け継いで育った。だから「妹ふたりを学校にやるためにあなたにはわるいことをするけれど」と高等尋常小学校から上に進むことを諦めたときには様々のことを察して、黙って「はい」と返事をしたと聞く。国中が長い不況と事変のさなかにあったころの話だ。

果たして諦めた甲斐のあり、妹二人は高等師範に進んでそれぞれ中学の校長と高校の教頭を勤め上げた。

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戦後すぐにじいさんと写真1枚か2枚の見合いで結婚をした。気難しいところのある爺さんをうまいこと操って家を支えたのはばあさんである。中島飛行場というところの工廠跡地を払い下げられた。そこで養鶏農家をやり、造園を、果樹を、盆栽を、庭木を、漬物を、樹々や花々を、そして娘とおれたち孫を育ててくれた。

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ばあさんは平均して朝3時半に起きていた。春でも夏でも秋でも冬でも変わらなかった。野良着に着替えて、雑草をむしり、要所要所の見回りをし、最盛期には3,000羽を超えたという鶏の1羽1羽に対し方眼紙に実に几帳面なマルとバツを付けた。卵は採算点が低いので、無駄な鶏を飼っておくわけにはいかない。手慣れた技で首を折り、羽を湯がいてむしり、裏手の栗の木に血抜きに吊り下げる。そうして作られた紛れもない出来たばかりの鶏のささみが、朝食に並んだそうである。

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おれの育った80年代にはすでにオイルショックを過ぎ、飼料と燃料の高騰に養鶏は割が合わなくなっていた。だからおれは最盛期からすれば雀の涙ほどの数の鶏が庭にほとんど放し飼いにされていた様子をかろうじて覚えている程度だ。鳥ささはほんの数回食べさせてもらった。うまいのかどうかはそのときわからなかった。ただ7歳からこれまで38年間によそで食べた鶏は正直どれもうまいと思ったことはない。「これではない」というのはわかる。

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ばあさんはせっせとおれにものを食わせてくれた。未熟児で命の瀬戸際にあったおれをこの世につなぎとめたのはばあさんの献身である。牛乳と人参とアロエと卵黄とあと何だったか、おれの潜在記憶にはばあさんの姿がある。いちおう人の形になってからも、野菜や果物はほとんどすべて庭で採れたのを、せっせと摘んできては、いつも何かしら台所で煮たり焼いたり蒸かしたり切ったり皿に盛り付けたりしていた。もちろんおれに食べさせるためだ。

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ばあさんが最初の脳梗塞を発症したのはおれが16のときだった。89年。自転車で近所に買い物に出て転んで帰ってきた。その後じいさんがいうには「頭のこの辺がどーんとじーんとしてしびれる」といって、横になった。そのときは回復したように見えたが、後遺症は残り、病自体の進行もあって、いや、それから先のことは書きたくない。

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2年前に書いたこれが精一杯だった。秋になるとおれはいつもばあさんのことを思い出す。ばあさんが9月生まれだったことと、実りの季節であることが、おれをそのようにさせるのだろう。

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おれが東京の大学に受かったとき、ばあさんは病気がだいぶ進んで、おそらく合格したことの世間的な意味は分かっていなかったはずだ。それでもいつにない様子で喜んでくれた。

そんなわけでおれはいまでも秋になると激しい後悔に襲われる。何も東京に出ることはなかった。地元の農業短大を首席で卒業して栃木県庁か足利銀行に入り、庭を受け継いで、ばあさんを看取り、同級生となんとなく結婚し、子を授かり、その様子を別の子に見せる人生がよかった。

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そんなことを口にするとおまえたちは「せっかくの学歴を」だとかなんたらだとかいっておれを窘めようとする。ありがたい話だ。おまえたちの親切にも、おれの気持ちにも、どちらにも嘘偽りはない。

けれど、おれにはもうひとつの人生の可能性があったんだ。

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そしてこんな不肖の孫を、ばあさんは生涯誇りにしてくれた。ただのいちども叱られたことがない。記憶にあるのは褒められたことばかりだ。何もしないでいても褒めてくれるのである。そのことのもつ意味合いを、おれは後に夏目漱石の「坊っちゃん」を読んで痛切に思い浮かべることになる。

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おれはばあさんの気持ちに何ひとつ報いることができなかった。そのことはおれ自身がいちばんよくわかっている。