と学会じゃないよ。ト学会。なるたけわかるように見つからないように書く。あのおねえちゃん(ト女史)けっこうしぶとく論戦を挑んでくるから。いつだったかおれもめんどくさい思いしてる。
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近代文学における告白の意義について柄谷行人がいいことを書いてたのを思い出した。漱石「こころ」は、「やっちまった後の」小説だと。間に合わなかった弁明であると。ここから先は柄谷自身のことばでは書いてなかったと思うが入れ子構造になっていて、先生はお嬢さんに対して間に合わなかった。もちろんKに対しても。その弁明を受ける「私」も手紙を受け取ったときに間に合っていない。
この手紙があなたの手に落ちる頃ころには、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。
「坊っちゃん」も、同じ本質的構造をもっていて、坊っちゃんは清に間に合っていない。あれ、武勇伝を散々聞かせ(され)た後に小日向の養源寺って。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
(アッと驚く為五郎じゃんよう)ついでに、たぶんここに、漱石のいろんなものが詰まってるんだけどね、街鉄の技手とか、玄関付きの家でなくっても至極満足とか、お墓のなかで、とかね。ま、それらは今日の本題ではない。ト学会。
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もう、怒涛よね。おれなんて1文1文感銘をうけた先に星を打つから十数個。脚色は、そりゃあるだろう。けど、これブログ記事、物語の形をとって、たんぽぽさんには何かしら固有の、「間に合わない」核心があったことを思わせる。
こういう、
今、修学旅行の子供達が、東京の街を歩いているのを見かける度に思い出すよ。
私達が北海道へ修学旅行に行ったのも、ちょうど今頃でした。
札幌は、岩手の片田舎の私達には大都会で、とても美しい街だったね。初夏にはライラックが花盛りになるのだとバスガイドさんから聞かされて、札幌に住みたいと思いました。
君はこの旅行で、北海道大学に憧れたのよね。
その北大を目指した君が、本当に入学した事を知ったのは、だいぶ時が過ぎてからでした。
すごいねすっちゃん。よく頑張ったね。
秋の主役はラッキーライラックだと黄金頭さんに直ちに知らせる必要がある。それくらいの啓示が、ここにはある。ここだけ急にカラーテレビになる。訳わからんw
童貞を煽って日本の地盤沈下を嘆くポーズをとって何が楽しいのかまったくわからない。告白ってのは好きですでも付き合ってくださいでもない。実は好きでしたいまさらごめんなさい私たちの街は美しい街でした以外の形式をおれは(基本的に)認めない。