illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

巨人と猫(おれのくーちゃん)

断熱シートをフルに使ってロフトの居住性が格段に上がった。

その、ロフトで寝ていると、くーちゃんが来てくれた。おれはベッドに寝転んでいる。くーちゃんは、ベッド下、足下のお気に入りの「ダンボール鍋」に。おれは手を伸ばしてくーちゃんを撫でる。

くーちゃんは気持ちよさそうに伸びをして、お腹を見せてくれた。

少し身をよじったので、その姿勢からどうにか安定を得、維持しなくてはならない。落ちてくーちゃんを驚かせたり、万一のことがあったりしては以ての外だ。その緊張がおれに思惟をもたらしたのだろう。

「おれだったら」と、伸ばした手のまま思った――体重比で10倍以上もある巨人と同居して、背や額を撫でられて喜ぶだろうか。おれの性格からして、まず撫でさせまい(はなちゃんは、正しい)。それが、喜ぶとしたら。条件は何か。

思いのほか、悪くない想像だった。「ふきゅ」と、くーちゃんが小声でおれに何かを伝えようとしてくれていた。

野暮などは申しますまい補遺ばかり

野暮は申しますまいが補遺をひとつふたつ。

www.watto.nagoya

談四楼さんもすっかりお年を召されて。51年生まれ。

それは置いておき、戦争と落語の話です。たまたま、ぱらぱらとめくっていた小島貞二

こんな落語家(はなしか)がいた―戦中・戦後の演芸視

こんな落語家(はなしか)がいた―戦中・戦後の演芸視

 

昭和中期の芸談としてとても面白い。中でも、柳家金語楼(山下敬太郎)の弟、昔々亭桃太郎(山下喜久雄)が、戦時中、東條英機にしばしば呼ばれて落語をやらされた。桃太郎は太鼓持ちが非常に巧みで、東条英機にさんざんゴマをすったものだから、もうこれくらいしておけば赤紙は自分のところには届くまいと半ば期待をしていた。

それがあてが外れて召集令状が来て(昭和18年)、山梨の連隊に呼ばれる。前日、陸軍病院に慰問に行って、「えー、わたくしも明日、みなさんの仲間入り出来ることになりまして」なんてヨイショをして、それで、満州からシベリアを経て昭和22年に復員。

昔々亭桃太郎 - Wikipedia

東条英機といえば昭和の文人やジャーナリストにすこぶる評判のわるい、例の竹槍事件。37歳の老兵、新名丈夫を懲罰召集し、まあ、少しお読みになればおわかりいただける。縷々書いておいて、また、大切なことでもあり恐縮なのだが、こちちが本題ではない。

竹槍事件 - Wikipedia

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談四楼さんが演ったという隼の七。

浅草寺参詣帰りの「旦那」が見知らぬ男に突然、持ち物のキセルを譲ってくれと頼まれるという、シチュエーションドラマのように開幕する。実はこの男は名前を「隼の七〔はやぶさのしち〕」という巾着切りすなわちスリで、この男がいかにスリから足を洗い更生するかというのが噺の佳境である。

新装なった名古屋市公会堂で愛知憲法会議主催「市民のつどい」に参加した - しいたげられたしいたけ

隼の七と聞いたらおれは黙っちゃいられない性分なんだ。

貰い子だったからかどうかは知らないが、桂三木助 (3代目)は若い頃、荒れに荒れた暮らしを重ねる。戦争末期から戦後すぐにかけて橘ノ圓(まどか)を名乗るが、日本橋界隈の賭場で「隼の七」と聞けばだれもが知る。歳にして45歳くらい、そのやくざ者が、ふた回りも歳の離れた、かつて踊りの師匠を務めていたころの弟子、仲子とどうしても結ばれたいというので彼女の家に行き談判に及ぶ。

25歳年上の博打好きに嫁がせることは出来ないと考えた仲子の家からは、「三木助を継げるような立派な芸人になれたら。」という条件を出した。どうせ出来まいという気持ちが、仲子の家の方にはあったのだろうが、彼は心機一転、博打を止め(この心情を、後に三木助は「芝浜」の主人公の断酒に感情移入して語っている。)ついに3代目三木助を襲名し、二人も結ばれることになる。

名人への道を進んだのは壮年になってからで、「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような芸風で、とりわけ「芝浜」を得意演目とし「芝浜の三木助」と呼ばれた。

桂三木助 (3代目) - Wikipedia

これは褒めすぎというもので、三木助はあんまりうまくはないよ。声がいい。江戸言葉がいい。それらを寄せ木にした、本質的には「芝浜」だけに行き着くとおれは思う。その芝浜も、アンツル(安藤鶴夫)の手柄、というか、談志にいわせたらアンツルが芝浜をだめにした、貶めたってことになるのだろうが…。

翻って、wattoさんが足を運ばれた集いで、談四楼さんがどこまでしゃべったか(しゃべらなかったろうなあ)判らないが、ネーミング(隼の七)と、配役(更生する巾着切り)、道具立て(煙管-芝浜で印象的な役どころを見せる)といい、三代目三木助さんのことが念頭にあったのは間違いあるまい。

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いくつかYoutubeに上がってるけれど、枕、くすぐり、声の調子、これがベストかと思う。

www.youtube.com

野暮をついでに申せば、芝浜の枕に出てくる、三木助日本橋で暮らしてその湯屋に通ったというのが、「隼の七」時代。

おれが、前にも何遍か書いたけれども、23くらいのときに英語と漢籍をやりすぎて失語になったとき、何かのおりに、この三木助さんの芝浜のカセットに出会った。ひとたび聞くなり、夢と現(うつつ)の一切を、懐かしい言葉とともに了解、客席の子供の笑い声に促されるかのように、目から水がぽたぽたとこぼれ落ち、胸のつかえが下りた、おれはあのときに手で掴んだ感じをいまだに忘れない。

落花生の話

落花生の話をします。

千葉(船橋)に来て驚いたことの筆頭に近いのが、落花生が高いことです。

商品一覧 < 落花生なら千葉の下田園

習志野の、下田園さん。ここ、とても良心的な値付けで、おいしい。きれい。粒が揃っている。船橋市街のお土産店に行くと何割か高くなります。でも、その下田園さんでも、500gに1,900円はちょっと出せない。

僕が子供の80年代、宇都宮市内の乾物屋さんで買うと、キロ800円とかじゃなかったかな。あれはギフトではなかった。日常用、家族用。

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と、ここまで書いて思ったのだけれど、みなさん落花生を日頃から召し上がりますか。

そういえば僕はそんな習慣をすっかりなくした。それで高いと言っている。

船橋あるいは千葉で売られている、売り物の落花生は、基本的に名産、お土産価格なのでしょうね。

団欒を、なくしたからかなあ。落花生、グレープフルーツ、冬場のみかん…何かしらあってね。こたつ横ではお袋やばあさんが、松前漬けにするスルメを切っていたり、ちょっとした縫い物、編み物をしたりしていた。その手休めに、落花生を器用にむいて、つまんでいた。そんなに、高いものじゃなかった気がします。

おれのくーちゃん 深夜の手紙篇

くーちゃんはおれを怖がらない。たいてい、遠くから見ているか、そばにいてくれる。いま、夜中にも、こうして足元で丸くなり、その柔らかい毛並みを呼吸に合わせて静かに波打たせている。

くーちゃんは、おれのことを好きな可能性がある。

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おれはくーちゃんを看取った後、それが15年後か18年後かはわからないけれど、激しく後悔するのだろう。なぜ、くーちゃんがおれを好きでいてくれたことを、真っ直ぐに認めなかったのかと。もっと、生きているうちに認めればよかったのにと。

しかし、それはできない相談だ。

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下僕に、くーちゃんの気持ちを推し量ったり、ましてや断定的にこうだと認識を放ったりすることは許されていない。くーちゃんの気持ちは、下僕が秘密の裡に、さまざまな否定を試した後の、可能性の態でしかありえない。在ることを許されていない。

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ロフトに上り、毛布の上で先に眠っているくーちゃんの背に、お尻に、額を寄せて下僕は横になる。するとくーちゃんは何ともいえない柔らかい表情で目を細め、ときに下僕を毛繕いしてくれる。下僕が下に降りると、少ししてくーちゃんは降りてきてくれる。そして伸びの姿勢をとり、お腹を見せて横になる。

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好きというのは観念。なぜ観念に頼るかといえば、それはくーちゃんと離れている時間に思い出し、支えにする杖だから。一緒にいるときには、「好き」の可能性に思いを致すより先に、「くーちゃん大好きだよ」と背を、頬を、額を撫でる、それだけで下僕の時間は満たされる。

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そうして、それゆえに、おれは思い出すだろう。「15年後か18年後」を思ったあのとき、一瞬一瞬に、おれがいかに、どれだけ、くーちゃんを好きだったか。くーちゃんの気持ちを推し量るよりも前に、そのことによって、どれだけ満たされていたかを。

そして、かつて確かに在ったはずの手触りが失われた未来、いまよりもずっとよぼよぼになったおれは、「もっと、生きているうちに認めればよかった」と肩を落とすのだ。

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おれは確かに神と和解した。が、その後にも、切なさは残るものなのだろう。くーちゃん。

三島由紀夫vs全共闘間もなく50年

平成はまだ終わっていない。昭和は、終わった可能性がある。平成が終わるのは、不敬といわれようが何と後ろ指をさされようが、平成帝が、美智子様がお隠れあそばされたその瞬間からの道のりだ。

ひとつ、三島由紀夫の予言めいた呪い(のろい)、呪い(まじない)、寿ぎを確認しておきたい。それは平成の帝が退位なさる、そのときにお示しになったフォルムに関わることだ。

www.youtube.com

三島由紀夫は1969年5月13日、駒場のいまはなき900番教室で、「個人的な思い出」と断りつつ、自身の卒業式で3時間微動だにしなかった昭和帝のことを「それは立派だった」と述懐する。三島はその天皇から時計を賜る。

そして、「天皇」という言霊(ことだま)が、浮遊しないはずはないんだと、残るのだという問題提起を行って、900番教室を後にする。

anond.hatelabo.jp

増田に、非常に、その、何というか感慨を持った。私は、棄教はしたが元キリスト教徒のはしくれであり、父親は舞鶴共産党支部長を務めた火炎瓶作りの名手、という左翼であり、その倅は構造主義的なものの見方考え方に一定程度の有用性と、社会科学や人文科学の後腐れを見出し、翻って母方の祖父は中島敦の家ともおそらく接点のあった漢学者だ。

その私はいまはグローバル資本家の走狗として、難病の治験と薬剤物流の片棒を担いでいる。救いのない矛盾を宿し、自分なりに戦っているつもりだ。信じているのはくーちゃんであり、命を落とすならねこのため以外には考えられない。あるいは、目のあったぬいぐるみをつい買い求めてしまうほどには、アニミズムである。

もちろん、天皇制は信じていない。歴史としての万世一系も、神話も、好みではない。同じ読むなら、記紀万葉集に限る(記紀ではない)。それとは別に、私は幼いころ、国道4号線那須御用邸に向かう美智子様に、祖母に手を引かれ、手を旗を振った記憶がある。そのことを、その私個人の歴史性=思い出を、三島ではないが、捨てることができない。

dk4130523.hatenablog.com

近代天皇制は政治制度としては諸悪の根源たる誹りを免れない。近代に限るまい。その、近代制度の上に立つ、平成帝が、その矛盾に対し、「行幸」という形式で、父君、昭和天皇の届かなかった制約、枠を美智子様と手を携えて拡張しようと努められた、そのことがもし嘘松でないとしたら、三島由紀夫のいう「浮遊する言霊」は、確かに私たちに定着し、いまなお定着しようとしていることになる。私はそのことを震災のあとに個人史の一部として受け入れ、頭を垂れた。

dk4130523.hatenablog.com

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そんなわけで、繰り返し記すが、平成は終わっていない。

美智子様の手をお取りになり、一礼なさる。課題は、今と次の世代に持ち越されている。

天皇陛下 8月にもお気持ち表明へ | NHKニュース

退位されたのち、象徴として、お忍びで各地を行幸なさったら素敵(それ漫遊水戸黄門

2016/07/29 08:06

b.hatena.ne.jp

《ドキュメンタリー「張本 勲」 ~巨人軍への道のり~》おすすめ | NHKアーカイブスへぜひ

思い出したときに書いておきます。

NHKアーカイブス。原典を知らないと、現代の味付けにアレンジされたものを正と受け取ってしまう。張本を扱ったドキュメンタリー然り。

僕がNHKアーカイブスで最高の作品の1つと思うのがこれ。

■ドキュメンタリー「張本 勲」 ~巨人軍への道のり~
1976年(昭和51年)30分
1976年春、オフシーズンのプロ野球界は張本勲の巨人軍入団の話題に沸きました。前年に現役を引退したばかりの長嶋監督率いる巨人軍は、球団史上初のリーグ最下位に終わりました。この屈辱的な成績を返上するため、長嶋監督がなんとしても獲得したいと考えたのが、パリーグ首位打者7回という輝かしい記録を持ち、ヒット・マシーンの異名を持つ男「張本勲」だったのです。
本名チャン・フン。子供の頃から野球一筋に打ち込み、プロに進み、数々の記録を塗り替えた張本選手の半生は物心ついた時から常に闘争だったと語ります。憧れの巨人軍への移籍を果たしたばかりの張本選手に密着し、その半生を描きます。

【スタッフ】
撮影: 松木利男
録音: 宮崎 斌
編集: 池野忠央
効果: 河本哲也

 

www.nhk.or.jp

www.youtube.com

これじゃないんだ。もっと、静かな作りで、日本語を話さないお母様が登場したり、今じゃ、放映無理なのかな。僕が川口のNHKアーカイブスにときおり足を運ぶのは、実は《ドキュメンタリー「張本 勲」 ~巨人軍への道のり~》を見るのが目的だったりする。未見で、チャンスのある方は、ぜひ。最近の、原爆とか、在日問題とかに絞った番組では味わえない、半生そのものを、きちんと描いている。きちんと描けているから、余分なナレーションがない。そのような映像作品です。

尾花高夫「その話は聞かせてもらった」

ちょっと、ブコメでは書ききれない字数と内容になりそうだったので。

news.yahoo.co.jp

b.hatena.ne.jp

id:htnmiki さん、お元気ですか。突然のIDコール申し訳ないです。

アマゾン『Alexa』に盗聴問題。録音した会話を顧客情報と紐付け&面白い内容は従業員で共有とヤバい(篠原修司) - 個人 - Yahoo!ニュース

十二国記の冗祐のように無いものとしてふるまっていたのにユーザーが苦境に陥ったときに「私は聞いていました。ずっとあなたが努力してきたことを。」とか言って慰めてくれたら胸熱どころか通報だよな

2019/04/15 12:29

b.hatena.ne.jp

www ちょうど、似たようなことを思い、違うことも考えていたので、エピソードを紹介します。ヤクルト80年代を支えたエースのひとり、尾花高夫。後に名コーチ、名伯楽として引く手あまたの存在になる。と、島田誠。こちらは日ハム俊足巧打のやはり往年の名選手。彼ら二人が、海老沢泰久が生きていたら、きっと短編にしただろうなあと思わせる逸話を残しています。Wikipedia島田誠のほうから引きます。

島田が福岡ダイエーホークスにコーチとして在籍していた1999年に、ダイエーに投手コーチとして尾花高夫が招かれた。島田は、同球団に在籍経験がなく肩身の狭い思いをしていた尾花をよく支えた。

理論家の尾花が膨大な資料を整理していて古参のコーチから嫌味を言われた際、島田は「こんなに資料を作るのにどれだけ尾花が苦労しているかあなたたちにだって分かるでしょう。尾花が頑張っている間にあなた方はタバコを吸ったり、無駄話をしているだけじゃないですか。だからこのチームは20年もBクラス[13]なんでしょう?」と尾花を庇った。尾花はこれを忘れず、

島田誠 - Wikipedia

続きはぜひご自身でどうぞ。

尾花高夫はまっすぐな人柄で、

尾花は他のコーチとの確執が絶えず、王に辞意を伝えたが、彼の手腕を認めた王が「お前の居易いようにするから」との一声で留任を決めたという[10]。また、島田誠の存在も大きく、外様故に軽視されがちだった所を島田に助けてもらった経緯もあり、彼が王の信頼を失いかけた時は自らも島田を助ける等、互いに信頼関係を築いていた(島田の項も参照)。

だとか、

ダイエーからのコーチ就任依頼は監督である王自身からの電話だったが、「まさか王さんが直接自分のところに電話してくるはずがない」と思い、王の「もしもし、王ですが」という言葉に「王さんですか?失礼ですがそのような知り合いに心当たりないのですが、どちらにお掛けですか」と答えてしまった。しかし王は「福岡ダイエーホークスの監督を務めております王貞治と申します」と丁寧に返答、これにはさすがの尾花も受話器を握りしめたまま直立不動になってしまった。

だとか、

尾花高夫 - Wikipedia

再び島田誠の項。

尾花には島田と同じくフジテレビジョンの野球解説者だった時期があり、島田と共に『プロ野球ニュース』に出演していた。そして2009年オフに尾花が横浜ベイスターズの監督に就任すると、島田はヘッドコーチとして招聘され1年間務めた。

お粗末様でした。ほんのお口汚しに、ちょっと紹介してみたくなったのでした。