illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

なぜ日記をつけるのか

船橋大神宮へのお参りを済ませて帰宅しました。

以下はその帰途、歩きながら頭をよぎったことです。

*

id:CALMIN さんが「日記をつける意味」という、大変に印象深い記事を書いていらっしゃいます。

www.calmin.org

これに対しては、「はる君のこと、CALMINさんのことが気になるから、書いてくれると、それを読むと安心します。だから…」みたいな優等生的な反応が容易に想定される。いえ、わるくはありません。僕も気になって仕事中に踊り場に出て何度かサイト、Twitterアカウントを、開いてしまいます。

ただ、僕が僕らしいという意味で今日、これから書くのは別のことです。

*

敗血症という難しい症状、ステージにあって、ただやっぱり、初期の段階でPICUでそれが見つかって信頼出来る先生とスタッフのみなさんが精力的に尽くしてくださっているといいます。僕はそれは決してマイナスの要因ではないと信じる立場です。

だから、はる君はきっとよくなってお家に帰ってくるでしょう。

*

そして、すくすくと育つ。中学生か高校生のころに、CALMINさんと、お父様と、ふたりの上のご兄弟と、はてなの日記を興味深く読んだり、話したりする機会があるのじゃないかと想像します。

日記をつけるのは、そのため?

*

僕がいいたいことは、それとはちょっと、異なります。

思い、想念、話しことばというのは、それはとてもとても消えやすく、弱々しい性質をもつものです。山際淳司も、(生涯で僕の知る限りいちどだけ)そのことに言及しています。

何もしないでいると、頭の中は様々な想念でいっぱいになってしまう。いろいろな言葉や、ちょっとしたフレーズや、活字で読んだ文章や……そういったものが次から次へと登場してくる。それがわずらわしかった。また、それを紙に書きつけてみたりするのも、僕はたまらなくいやだった。ノートに清書された詩を目の前につきつけられたりするようなことが度々あったが、ぼくはどうしても好きになれなかった。ひとことでいってしまえば、そういうものはあまりにも弱々しかった。そう思えた。すぐにひねりつぶされそうに見えた。安易だと思った。

そのかわりに、ぼくはある一時期、走っていたのかもしれない。

山際淳司「夏、その2」(角川文庫『彼らの夏、ぼくらの声』P.106)

彼らの夏、ぼくらの声 (角川文庫)
 

この部分は、ライター山際淳司誕生/転回の決定的要素のひとつです。彼が19歳、浪人生のときのことです。ただ、今日はそこを話すのが目的ではありません。「だから、書く以上は、浮かんだり消えたりする想念を定着させる意味のあることばを紡ぐ」というのが、僕が話したい第一の点です。念のため申し添えれば、このことを僕が誰かに押し付けようというのではありません。

*

第二点は、こと、はる君とCALMINさんの日記についていうならば、未来の僕あるいは「僕たち」のため、ということです。僕はこの記事のおしまいに書く3つ目の話/企画の延長において、きっと5年後にはる君に会いに行くだろう。そのときに、僕はCALMINさんと僕と「僕たち」(すなわち、ブコメ、言及記事…)の日記のエッセンスを物語に書き起こして、彼、はる君に絵本を作って贈るつもりです。

その絵本は、いま確かに手元にある、けれど5年後の僕たちからすれば、いまからの5年間の前に形を変えて当人すらどこか片隅に置き忘れてしまった蒸留酒のような形を、おそらくとる。僕たちは、それを読み、なんともいえない懐かしさに襲われるに違いない。

*

ここから数行に記すことは、縁起でもない話とは、思わないでくださいね。

例の僕が書いた物語で、血液グループ先生はインターネットの掲示板を通じて寄せられた大量のメッセージを、よよん君の元へ届けた。理性で考えれば、そのメッセージは、いちばん読んでほしい人に読まれることはあり得ない。

じゃあ、書かないか。或いは、書かれたものを印刷して持っていかないのかといわれたら、答えは断乎としてNoでしょう。

*

僕は血液グループ先生のとった、この大変に優れた手法を、未来のために使いたい。

未来の、はる君のために。

*

えー、オホン、「メンヘラ部長日乗」始めました。

恥ずかしいので読まないでください(笑)。しかし僕はこれをなんとしても収益化してみせる。激しくだ。アフィリエイト(やる)、仮想通貨投げ銭(やる)…互助会以外のことは何でもする決意である。うむ。

5年もやれば、書籍化の話がきっとくるだろう。アフィリエイト収入も、仮想通貨の上増しだって、きっとどうにかなる。

*

それを元手に、ランドセルを、買う。絵本を刷る。そしてその出来上がった絵本をランドセル入れて、はる君に渡しに行くんだ。

小松左京「復活の日」について

さいとう君がお正月休みに便乗して適当な(だが一瞬だけぴかりんと光る)記事を書いている。

hatebu.me

冒頭に「復活の日」を持ってきてくれたのはよかった。ちなみに「戦国自衛隊」は彼のリサーチによるとはてな/ブログ界隈では一般的だそうだが、私は大いに不満である。不満を口にしても仕方がないので「復活の日」について記したい。

*

とかいいながら、めんどくさいので概略はさいとう君とウィキペディアに任せる。

復活の日 - Wikipedia

復活の日」の眼目はそこにはない。我思うに2つある(これは繰り返し読んだり見たりして感じることだ。誇っているのではなく、そこが、結果的に残った)。

*

手元の文庫から引用する。

いろいろあって吉住は期待を一身に背負い北上する。その少し前の話。

突然イルマは顔をおおって泣き出した。——裸の肩の肉がぶるぶるふるえた。
「泣かないでください……」吉住はおずおずとイルマの肩に手をふれた。
「ごめんなさい——本当をいうと、私、つかれちまってるの」イルマはすすり泣きながらいった。
「“ママたち”の中で、私が一番年上なのよ。女ばかりでなく、ひげづらの男たちまでが、みんな私のところへくるの、毎日毎日……何人という男が……私はいつも、陽気なおばさんで、母親で、すいも甘いも、かみわけて、色の道にも通じた年増なの。疲れはてたり、絶望したり、ヒステリーみたいになってる男たちを……毎日毎日……はげましたり、体でなぐさめたり……聖なる娼婦みたいに、もういままで何千人って男を相手にしたわ——これから先も……いったいいつまで、こんなことがつづくのかしら?こんな陰気な、一年の半分が夜の、氷と雪ばかりの世界で……」

吉住は泣きじゃくっているイルマの髪の毛をしずかになでた。

「すこしやすんだら……」と吉住はいった。

復活の日 (ハルキ文庫)

復活の日 (ハルキ文庫)

 

小松左京復活の日」ハルキ文庫P.398-399)

これは、あれ(ここ点々打って)だよね(記事を書くこっち側で俺はいまいろんなジェスチャーをしているんだが書かない)。あれのメタファだ(ちんこではない)。何かは、書かないよ。戦争が終わって19年、1964年の書き下ろしだ。先の、東京オリンピックの年。

その、浮かれポンチ、昭和元禄のただ中で、小松左京にはそれ(ここも点々打って)が残っていたんだ。小松左京は実にむちゃくちゃな作家だが、それでも僕は信頼する。というのは、こういう、戦争、敗戦の匂いが、彼の60年代の作品からは、方々に、不意に立ち込める瞬間があるから。そのことは例えば別の代表作「日本アパッチ族」なんかでも例証可能であり(前にも書いたな)、

dk4130523.hatenablog.com

戦後、昭和25年くらいまでの大阪には鉄を喰う人たちが住んでいたという。小松左京開高健が力説しているのだから確かだ(いや、あの、その…)。

以上が「我思うに」の1/2である。

*

いまひとつは、草刈正雄の狂気と見紛う演技。

www.sankei.com

違う、これは「戦国自衛隊」。それでもって、

これも違う(違くない)。どうよこれ、この、豪華過ぎるキャスト、といいたいがためにキャプチャした1カット。

www.sankei.com

これはその、つまり、大工の倅のメタファだよね? いや、俺はそんなことはいわないんだけどさ。

*

映画「復活の日」ラスト、たどたどしく歩いてくる草刈正雄オリビア・ハッセーを迎えるシーン、これはぜひDVDを借りるなどして見てほしい。実生活では布施明オリビア・ハッセーを迎えるわけだけれど(その後1989年に離婚)、実は上で引用した、おばあちゃん娼婦、イルマ、これが映画ではオリビア・ハッセーにすり替わってしまっている。そして映画では、抱かれるシーンは、ない。

無論、彼女オリビアに罪はない。この、1シーン(イルマと吉住の)をもってしても、まだまだ、文学作品の表現と興業映画表現との間には、考えなければならない課題、溝があることが分かる。

*

そんなわけで、さいとう君セレクトの正月休み映画を見てくれたなら、「復活の日」これに関しては是非とも、上掲ハルキ文庫の原作のほうを手にとってみていただきたい。そうして、小松左京への興味が湧いたなら、その先「日本アパッチ族」はいうに及ばず、ウイルスもの地球もの「復活の日」への導火線「紙か髪か」「地には平和を」「地球になった男」等々にも、ぜひぜひ、手を伸ばしてほしいと思うのでござる。

(海老沢泰久と玉木正之の描く)星野仙一のこと

星野仙一が他界した。僕は彼をあまり好きではないが、スポーツ記者があまりに薄っぺらな記事を書いてそれで悦に入っている様子なので、記しておく。

*

海老沢泰久が珠玉の名短編「巨人を愛した巨人キラーたち」の中で江夏、平松らと並べて行を割いているのが星野である。

彼は倉敷商から明治大学に進み、史上空前絶後のドラフト会議(1968.11)で、ジャイアンツの裏切りとも取れる行為(星野を単独指名できたにもかかわらず武相高校の島野修:後のブレイビーを指名)に遭ったのだが、そのことは一部割愛する。

「そんなバカな――」

と星野は記者たちにいった。「星と島のまちがいじゃないですか」

まちがいではなかった。彼は指名順位十位のドラゴンズに指名された。

「ぼくはプロでやりたいとは思ってたけど、どうしてもジャイアンツにはいりたいとは思っていなかったんですよ。どこが好きかといわれれば、子供のころからのタイガースファンだったし」

と星野はいった。「ただジャイアンツが指名するというから、それなら行きましょうといったんです。好きでもない女でも、振られれば口惜しいですからね。島野と聞いたとき、カチンときたんですよ。でも本当に腹が立ったのはそのあとでね、何かのパーティーのときにジャイアンツのスカウトが近よってきて、ぼくに中日を蹴れっていうんですよ。どうしてそんなことをいうのか信じられなかったですね。

ぼくはバカなことをいうなといいましたよ」

(引用は上掲書P.192-193から)

次は、時代を下り、現役引退後の1987年に高田実彦(いまどこで何をされているのだろう)が記した一節。

幼少のころ父親を亡くし、母親に育てられた。躾の厳しい母親は、野球で暴れるぶんには、叱らなかった。明大へ入って出会った島岡監督は、さらに”ユニフォームで燃える”指導をした。

(P.190)

星野という男には確かにそういうところが見られた。カチンとくると燃える。(おそらくあったであろう)父親的なものへの憧憬。そしてその相似形としての、父親的球団ジャイアンツへのアンビバレントな思い(ファザコン、といえばいいのかな)。

しかしそれらは、そこらのスポーツ記者が語る単純なスポーツ時局論、会って話したことがあります論、感傷文では届かないところにこそ何か核心がある。かつて、そのことに、30代半ば頃から気づいていた気鋭のスポーツジャーナリストがいた。

玉木正之だ。

ほしの せんいち【星野仙一】①(略)いずれ政治家に転身する……という声もあるが、そんなばかじゃないですよ、このひとは。②筆者がこのひとのことをほめると、必ず「それだけは認められない」という反論があるくらい、アクの強い人物。③陰で悪口をいっていても、直接面と向かって悪口をいうひとがいない人物。そこいらあたりが、彼の陥穽にならなければいいのだが……。

プロ野球大事典 (新潮文庫)

プロ野球大事典 (新潮文庫)

 

(P.509)

しかし、このような見方を軽々と乗り越えた人も(少ないながら)いた。海老沢泰久の著作に筆を戻す。

長島は監督になってから、この星野にひねられた試合のあとで、自分のチームの選手たちのふがいなさを嘆いてよくこういった。

「あれがピッチングというもんだ。うちの連中は、どうして星野のようにやれないんだろう」

彼は、日本にはジャイアンツというチームはひとつしかないことを知らなかったのだろう。星野も江夏も平松も、相手がジャイアンツだから特別のファイトを燃やすのだ。

(前掲書P.193-194)

長嶋茂雄という人物の何というか、人のよさ、味のよさというのがよく表れた一節だと思う(ちなみに、長嶋は平松政次にも同じようなことを思っていて、実際に平松のことは10年目を迎えた頃のあるシーズンオフに長嶋自らが電話でジャイアンツに移籍しないかと話したことがあると海老沢は証言している。平松はうれしかったが断り、大洋の平松として生きる道を選んだという)。

ところで、1つ前の玉木正之の引用で、僕が意図して省いた部分がある。

①十二世市川団十郎を彼が継ぐべきだったと思えるほどの見栄を、マウンド上で切った元ドラゴンズの投手。テレビ・タレントになってしまうのかと思っていたところが、ドラゴンズの監督に就任して二年目(1988年)にペナントを獲得。

(前掲書[玉木]P.509)

この演技性(と、ないまぜになった鉄拳制裁)をどう評価すべきか。僕は目を背けてしまうほうだ。最晩年1981年か82年の星野のマウンドをテレビで見たことがある。もう、ピッチングは衰えていた。そのことは子供の目にも明らかだった。にもかかわらず、何か大きなジェスチャーを繰り出していた。「怖い」と僕は思った。同じころ、淡々と敗戦処理をこなす堀内の飄々としたメガネのほうが、僕は好きだった(柔らかく、衰えたとはいえバネを残すピッチングフォームも断然、美しく見えた)。

*

しかし僕は故人を貶そうというのではない。僕は苦手とする星野仙一という男の生涯で手放しで好きなシーンが1つある。正確には2つだ。その1つをやはり海老沢泰久から引用する。1982年のシーズン終盤のことである。

ドラゴンズの選手たちは勝とうとして必死になっていた。彼らも野球がつらくなり、なにもかもほうりだしたくなったときがあったが、星野仙一がそれをくいとめた。ライオンズで森に対する不満が爆発したように、監督の近藤貞雄への不満がいっぱいになったのだった。そのとき星野は主力選手をみんな集めていった。

「おれがこのチームで優勝したのは8年前で28歳のときだった。そのときおれは、またすぐにあと一度や二度は優勝できるだろうと思った。しかし結局できないで8年たってしまったんだ。田尾だって若手といわれているが28じゃないか。いましておかなかったら、おまえらだってつぎはいつできるか分からんぞ。おまえらが監督をいやだというのは分る。おれだっていやだ。しかしおまえらは使ってもらえるだけ幸せじゃないか。おれは使ってもらえないんだぞ。そのおれが黙っているんだ。おまえらも何もいうな」

そして彼らは歯をくいしばって頑張った。キャッチャーの中尾孝義はバッターボックスにはいった相手チームの選手に、試合中ずっとこういいつづけた。

「打たんでください。お願いします」

(前掲書P.168)

若干の、星野の「くささ」、演技性がないわけではない。ただ、それがあったにせよ、その彼の性質が、チームのまとめ役としてここではいい方向に作用している。

星野はおそらく、逆境で「なにくそ」と思うところでこそ、持ち味を発揮するタイプだったのではなかったか。

(追記)実際、この年の星野は次第に登板機会を失くしていく。

*

そのような、複雑と屈折を人間星野仙一に対し読み込む僕にとってすら、これはいいシーンだなと思った、忘れられない映像がある。先に2つと書いた、もうひとつのほうがこれだ。

2003年9月15日。18年ぶりのタイガース(フライング)優勝。さよならヒットを放った赤星をうれしそうに迎える選手たちを見守り、そして列の最後に赤星を抱擁する場面だ。

www.youtube.com

その、体育会/島岡的手法、「わいが育てた」、笑顔の目が笑っていない、計算高い云々、批判はあろうかと思う。球場のスタンドから、あるいはテレビのこちら側からそれらを論じるのは、さほど難しいことではない。殊にその鉄拳制裁の悪しき伝統は、追放されるべき時期がとっくに来ている。

*

だが、ここまで記して、正直にいわねばならないことがあることにも、僕は気づいている。東海中京地区に生まれ育ち、1974年のドラゴンズ優勝、その前後の「闘将」星野仙一のマウンドさばきをこの目で見てしまっていたとしたら、きっと、違ったニュアンスのことを書いていただろう。ご冥福を祈りたい。

*

(追記)id:watto さんからドラゴンズ初優勝について貴重なコメントをいただきました。初の字に取り消し線を。ありがとうございます。id:homare-temujin さん、先に倉敷を尋ねた折、星野仙一記念館の前を通ってきました。

1001-kinenkan.jp

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この写真の、対岸奥、くらいだったかな。

*

センロックさん、今頃、島野修と「さすがのわいでもブレイビーはわいが育てとは言えん」と、天国で握手を交わしているだろうか。ブレイビーの話は山際淳司が割に好んで描いているので、また今度にでも。

津軽には7つの雪が降るとか

すばらしいですね、雪女郎。

kihiminhamame.hatenablog.com

惟喬親王の話はまた別にします。

*

志ん生が、何の噺だったかマクラに次のようなことを仰る。

あたくしが小さい時分には、上野の鈴本の辺りは随分暗くて、ちょっと脇の通りに入ると虫が出た。何だろうあれは、てんで、その薄暗がりの通りのほうに目を向けると、おしりを紫色、ピンク色に染めた大きな女郎蜘蛛がいる。そりゃもう見事なもので、思わず手を伸ばして捕まえようとする。

「お兄いさん、ちょいと寄ってらっしゃいな」

いつ演じたものだったか「疝気の虫」のマクラだったかと思うのだけれど、いま手元にテープがないので、雰囲気でやっちまった。東横んときだったか。相済まねえ。どなたか親切な御仁、探しておくんなさい。

*

ウィキペディアの「雪女」が、非常によく出来ている。とりわけ印象的な部分だけを引く。

雪女 - Wikipedia

山形県上山地方の雪女は、雪の夜に老夫婦のもとを訪ね、囲炉裏の火にあたらせてもらうが、夜更けにまた旅に出ようとするので、翁が娘の手をとって押し止めようとすると、ぞっとするほど冷たい。と、見る間に娘は雪煙となって、煙出しから出ていったという。また、姑獲鳥との接点も持っており、吹雪の晩に子供(雪ん子)を抱いて立ち、通る人間に子を抱いてくれと頼む話が伝えられる。その子を抱くと、子がどんどん重くなり、人は雪に埋もれて凍死するという。頼みを断わると、雪の谷に突き落とされるとも伝えられる。弘前では、ある武士が同様に雪女に子供を抱くよう頼まれたが、短刀を口に咥えて子供の頭の近くに刃がくるようにして抱いたところ、この怪異を逃れることができ、武士が子供を雪女に返すと、雪女は子供を抱いてくれたお礼といって数々の宝物をくれたという。次第に増える、雪ん子の重さに耐え抜いた者は怪力を得るともいう。

これ前半部分、タクシーの怪奇現象とクリソツですな。つまりその、人の想像力というのは昔から、ある祖型をなぞって同時代的な意匠/衣装を着せるだけで、あんまり変わり/代わり映えはしない。それをよしと見るか、何でえと見るかはあろうけれど、物語作家をいちどは志した身としてはですな(エヘン)(オホン)、安心立命につながる。

*

しかし、さりとて、当代、礼を恵んでくれるような雪女、これは数が減ったね。

www.youtube.com

僕は夜な夜な新沼謙治を歌っているのだけれど。

*

自然現象を象(かたど)った名前は数あれど、「ゆき」ちゃんは、何となく、これはいい名前だと思う。丸谷才一が日本人は年末になぜ忠臣蔵に夢中になるかを説いて、その主な要因の1つに「冬と春(夏)の交代のメタファー」と喝破した。

忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)

忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)

 

正しいのじゃないだろうか。

*

id:KihiminHamame さんの雪女郎、果て、次はどこに向かうのでせうか。諄いようだけれど、とても面白いw 「中河内の雪女郎」(なかのかわちの/ゆきぢやらう)私は何度でも何度でも云うが、この、口ずさんだときの響き、語呂のよさ、味わい。「あばれはっちゃく鼻づまり」意味ではないのだ、諸君。

「夢十夜」小僧に物を申したき寺田寅彦とうちゃんの声(57577)

三が日くらい、べらんめえでなくて丁寧に物を語ってみてもよござんしょう。

www.watto.nagoya

これが、

kihiminhamame.hatenablog.com

こちらさんに導かれて、寄り道をして、

dk4130523.hatenablog.com

戻ってきて、漱石夢十夜」の第三夜ときて、

夏目漱石 夢十夜

*

みなさんご存じないでげしょうが(この江戸なまりは書いていて自信がないw)、私は贔屓の寺田寅彦を思わず引きたくなった。寺田寅彦はいいよー!

1896年(明治29年) - 熊本の第五高等学校に入学。英語教師夏目漱石、物理学教師田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受け、科学と文学を志す。

寺田寅彦 - Wikipedia

何せ、あの「柿の種」、

柿の種 (岩波文庫)

柿の種 (岩波文庫)

 

棄てた一粒の柿の種
生えるも生えぬも
甘いも渋いも
畑の土のよしあし

これは、生半可の書き手には、出ない。この「柿の種」冒頭に寄せた断章、そしてこの、

大正十三年ごろの「無題」に、ページの空白を埋めるために自画のカットを入れたのがある。その中の数葉を選んでこの集の景物とする。これも大正のジャーナリズムの世界の片すみに起こった、ささやかな一つの現象の記録というほかには意味はない。
この書の読者への著者の願いは、なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたいという事である。

余裕、ゆとり、ゆたかさ、ゆったりした時間(というように、y音には不思議な効果がある)、次の一節だけ是非ともお読みいただき度候。

*

大学の構内を歩いていた。
病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄(ぶどう)ぐらいの大きさの疣(いぼ)が一面に簇生(そうせい)していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。

*

寺田は、果たして「夢十夜」を念頭に置いていたのかしらん。

anond.hatelabo.jp

いつもの、彼かな?

*

まあさ、化物は、いつだって我が心に住まうものよ。いつか、その心の、なつかしく溶けむことを願ひ置き、騙されたと思って、「柿の種」手にとってみて。

往還の別れて知るや逢ふの坂(575)

あけましておめでとうございます。

2018年4月から2019年3月に160億円の売上を作らなければならないメンヘラ部長(44)、趣味は中世古文、部下70名、バツ1、ハイパー高学歴、趣味は料理と水泳とめそめそすること、好きな言語はZ80です。

申し訳ないですがくーちゃんは誰にもあげません。

*

shougomama.hatenablog.jp

すばらしいものを読みました。

私は、少し違うと思います。

shougomama.hatenablog.jp

こちらのほうが、なんとなく、「合っている」ような気がします。

それから一生分の親孝行もしてくれました。

今思うと、まるで自分がいなくなるのがわかっていたかのような気がしてくるのです。

実家に帰ってきてから一年で亡くなってしまったのですから。

これからまだまだ、何処かへ行ったりしたかったですが、それも叶わぬ夢となりました。

私は、何度でも繰り返し書こうと思うのですが、Shogoさんは、親孝行が現世の目に見えた形では「足りなかったなー」ということは思って、分かっていらっしゃる。おそらく、これから id:ShougoMama さんがどこかにお出かけになるでしょう。そのときには、例えば夜道なら、頭上から足元をそっと照らす灯火に、きっと、なってくれる。これは別に宗教や非科学でも何でもなくて、昔から、数多くの文学作品がそのことを説いています。

*

あの、唐突ですが映画タイタニック、実に大学生デート向きのくだらない筋書きだと思うのですが(あれでは映画のあと口説き落とすことはできない)、

ひとつだけ胸を打つシーンがあります。ラストに近いところで、ローズは、ジャックと約束した未来を、ひとつひとつ生き延びた生で、実現していきます。当時の女性にとって「はしたない」行為とされていた、馬に跨って乗ることとか(横座りがスタンダードでした)。自由とか、女性解放とか、僕はそういうのは思わない。左右もされない。けれど、ローズの生はジャックによって確かに変わった。その、「誰かの生が、誰かによって確かに変わる」こと、これは控えめに言って、あり得ると思うのです。

僕自身が、物語を書いて、そうでした。

*

例えば、ShougoMama さんが、Shogoさんが、自身で「これをやりたかったなー」「やっておけばよかったなー」あるいは「母さん、これをやってみなよ」と、仰りそうなことが、きっとひとつふたつ、あるいはそれ以上に、思い浮かぶことがあると思うんです。それを、2018年は、やるといいのかな、なんてね。

僕もそうです。2001年4月25日に母を見送ってから、彼女は僕に「狭いところにいないで世界を見なさい」としきりに説いていました、だから、僕は僕なりに世界を見るように努めてきた。とても間に合わないのだけれど。

話はまた変わりますが、猫が短い期間の子育てを終えると「シャー」と威嚇して、産んだ子を追い立て、自立を促すでしょう? 私の母はあれのいささか過激な形だったように今更のように思います。(ブログを拝読する限り、ShougoMama さんはそのようなことはなさらない方とお見受け致しますが。)

*

誰かの代わりに、夢を見る。

この記事のタイトルは蝉丸、

【百人一首講座】これやこの往くもかへるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関─蝉丸 京都せんべい おかき専門店【長岡京小倉山荘】

これのもじり、当世風にいえばパクリですが、私これ、常々、不思議な歌だなあと思っていまして。蝉丸は、京滋の間の関所、逢坂を行き交う人の夢に寄り添って、彼ら彼女たちが夢の中で出会ったり、別れたりするところを、もにょもにょと夢現(ゆめうつつ)に、まるでお釈迦様のように見て、歌っているのですね(違う? 反論は受けて立つぜw)。本歌、小倉百人一首の、圧倒的屈指の一首といっていいでせう。蝉丸よくやったw

*

悲しみそれ自体が、原因にまで遡って消えることはないでしょう。けれど、その悲しみに代わって、同じかそれ以上の量の夢を見ること、これはきっとできると思います。私が自分の記した拙い物語で、その出発点、糸口にしようとしたのが、それでした。

dk4130523.hatenablog.com

*

すみません、新春迎春には、似つかわしくない記事かもしれません。

ですが、私は2017年に続く今年2018年を、ここから始めなければと、年末来、ずっと思っていました。

往還の別れて知るや逢ふの坂

往と還は、別れて初めて知るものなのだろうか。逢坂の関よ。

ShougoMama さん、ぜひ、今年も記事をお続けになっていただけたらと思います。その形容し難い(何とも言えず優しく流れるような)言葉の数々に、心を動かされている方は、私以外にも、きっといます。

がんばり入道の件

すみません、勝手に宣言して、許可を得ないうちに、やりますw

kihiminhamame.hatenablog.com

がんばり入道 『嬉遊笑覧』より - うきよのおはなし~江戸文学紹介ブログ~

あの、私、在野で中世古文をやっておりまして、たまにその、北見花芽 (id:KihiminHamame) さんの紹介されたものを、忠実訳を行う、品詞分解する、岩波古語辞典から薀蓄を引く、つまりその勝手コラボしてよろしいでしょうかw

2017/12/31 12:21

b.hatena.ne.jp

ひっじょーうに面白いw 吉行淳之介の好みでせうこれは。わいの出番や。

がんばり入道
又小児の諺に除夜に厠にてがつぱり入道ほとゝぎすといへるも厠にほとゝぎすを聞を忌ることよりいひ出しとみゆ
〔好色徒然草〕むさしの国にがんばり入道とかやいふ者のむすこ美男のほまれ有て女あまたいひわたりけれど此男若衆をのみ喰ひ更によねのたぐひをくはざりければかゝることかきたる者俗に有べからずとて親出家させけり
此戯文も諺をとれるかかんばり共いふ眼張にてをそろしけなるものを云ひてほとゝぎすを怖(オト)す意なるべし

訳すよ。北見花芽さんのところはご自身記していらっしゃるように【ざっくり現代語訳】。私は、えへん、中世古文命である。その知見を今焉んぞ生かさざるべき。もちろん江戸古文は違うんだけどさ。いいじゃねえか。固いこというな。ちょっとはおまけするからw

*

がんばり入道

それからまた、子供(向け)の諺(、教訓)に、大晦日の便所で(大晦日に便所に行って/行ったら)「がっぱり入道ホトトギス」と唱えるというのがあります。これも、便所でホトトギスの(鳴き声)を聞くのは(縁起が悪く)避けたほうがいい[*1]というので、そこから(誰かが)いい出したことと思われます。

[好色徒然草武蔵国の、がんばり入道某の息子、男前の誉れ高く、女が放っておかない。けれど本人は若衆の尻にばかり興味が向いて、娼婦にすら一向に手を出そうとしない。それだもので、「こんな、男として(の要が)欠けた[*2]者は俗世に置いたままにしてはよくない」と、親が出家させてしまいました。

この戯(ざ)れ話(は/も)、冒頭の諺から着想を得たものでしょうか。(がっぱり/がんばりは、)「かんばり」ともいいます。私(筆者として)は、眼(がん)を見張る(はり)と、いかにも怖そうなものを言葉に出して、ホトトギスを恐れさせるのが本意ではと、思います。

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[*1]ホトトギス(1)鳥の名。初夏に鳴き、その声が人の叫び声のように感じられ、人恋しさを誘う。古来、冥府の鳥とされ、橘・蓬・菖蒲など、不老不死伝説・復活伝説に於ける生命の木や草と関係して使われることが多い。【岩波古語辞典補訂版P.1200】

[*2]ことかけ【事欠け】。必要なものが不足する。不自由する。【同P.514】

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もうひと声、言及したいこともあるのですが、禁欲します。大晦日に子供に雪隠でおまじないを唱えさせるというね。ひっじょーうに、面白い。しかし、その面白さ、豊かさの源泉を、きょうは大晦日、分析的態度によって言語化したくないのであります。

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すみません、北見花芽さん、たまにやります、やらせてください。いや、そういう意味ではなくて、訳と補注をですね。がっぱり入道ホトトギス!

みなさま、よいお年を!