さすさん(id:amnosohmy)の後編が天岩戸に姿を隠した。おれたちおっさん勢は泣いている。別にJKだから擁護したのじゃない。何かの下心で擁護出来ると思えるほどにおれたちは髪の毛がふさふさじゃないんだ。ほんとうに、すばらしいテキストだと思ったのだ。その点は認めてほしい。
叩いたり、足を引っ張ったりするのは、観念が邪魔をするからだろう。世の中、ルール、べき論。叩いた人のところにはブコメで直接やんわりとカチコミをかけにいったので、ここでは言及を控える。言及をしたら、いじめになってしまう。さすさんだって望まないはずだ。
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俺が「さすさんすごいな」と思ったのは、校則とか大人の建前とかいろんな観念をひとつひとつかわしにいったそのスタイルだ。奉仕の精神を持ち合わせているから自分に掃除は刑罰にならないとか。ポジティブシンキングというよりも、そういうのは育ちのよさという。たぶん。
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ところで俺はさすさんが嵐のために8年間を費やしたように、好きな作家とアマチュアスポーツマン(おれたちの世代はアスリートとはいわんのや)のために25年を費やした。そしてようやくここまで来た。親兄弟親族一同(母親を除く)からは「せっかくの学歴を無駄にするようなまねをして」「あん? 官僚になれいうんか」と、いつしか一族とは疎遠になっていった。社会人になってからは、中島敦のいうわが内なる虎と人知れず殴り合いをしたことは一度や二度ではない。
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作家の名前は山際淳司といい、海老沢泰久といい、アマチュアスポーツマンの1人の名前は大橋克行という。さすさんが嵐のメンバーのひとりひとりを温度差はあれど愛しているように、俺にも同じだけの生きている限りは会って話をせずには斃れることのできないと思うほどに敬愛するスポーツマンがいる。
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大橋さんは、その筆頭の、かつて35年ほどまえに横浜でボクサーをしていた人だ。弟さんは秀行さんという。大橋ジムの会長さんである。かつて世界で一番つよかった人だ。その秀行さんが「小さいころは何をやっても兄貴にはかなわなかった」といわせたお兄さん。山際淳司が「逃げろ、ボクサー」という短編を残して、その山際さんは大橋克行さんとの再会を予感させながら、いまから21年前の95年夏に早世した。ちなみに俺は大学を卒業したらセンテンス・スプリングのスポーツ編集部に就職したいという願いをもっていたのだが、山際さんがいない世界で試験を受けても仕方がないとおもった。放浪癖はそれ以来のことだ。
でも、旅先で、いつかは山際さんの残した大橋克行さんのストーリーの後編を書きたいという気持ちは捨てなかった。捨てることはできなかった。
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そうはいいながらも、しかし、忙しさとやらを理由にして、大橋さんとコンタクトをとってから2年ほど動かずにいた。それが、さすさんの「前編」を読んで、俺は思わず、アドレス帳を開いた。俺は書くんだと思った。なぜそんなことをしたのかはわからない。比喩的にいえば、さすさんのテキストが、俺を揺さぶった、のだと思う。
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そんなわけで、GWに、取材を始めるつもりだ。企画書をいま推敲している。狙った短編が書きあがったら、「まえがき」か「あとがき」に、さすさんのテキストが俺を動かしたんだという話を書かせてほしい。そしてできれば、ブログタイトルの副題にある「夢をでっかくどう描いたか」の話を、聞かせてほしい。
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こちらからは以上です。