書簡体小説というのは近代前夜にJJルソーによって生み出されたものといわれます。けれどもそれはだから何って話で、自分にとって書簡体小説といえばという話を重ねていったほうが、きっとはるかに面白い。
と同時に、土曜日の猫さん(id:LeChatduSamedi)が書簡体を選んでくれたところに私などは芸の深みを感じるタイプです。
三大噺をします。ただ例によって落ちないと思います。お題は「わが書簡体の名作」「福田恒存」「哲学科出身の偉人」。
わが書簡体の名作
そりゃ先の大戦からのち、太宰の「トカトントン」に決まっておる。
一つだけ教えて下さい。困っているのです。
私はことし二十六歳です。生れたところは、青森市の寺町です。たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。わたしはそのトモヤの次男として生れたのです。
まず、ここまで読むともうひといきに読み通すしかないですね。よかったですね。
「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄までも抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。よし。解散」
そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。私はつっ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、そうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くように感じました。
死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒ごまつぶを空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。
そしてここ。死なう団のくだりではないよ。
一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒ごまつぶを空中に投げたように
こっち。
これは、川端にも三島にも書けないんじゃないかと常々感じております。ここを読むたびに、食器棚からごまをとりだして、そっとつまんで投げてみたくなります。それやったら深淵につかまるからやらないですけど。太宰の小説にはこういう生者に対する呪詛としか思えない戦争後遺症の発するフレーズがぽつぽつ出てきて、もう愛して差し上げる以外にないわけです。「愛してると云ってくれ」ってはっきり書けばいいのに。臆病さん。
第2位は、宮部みゆき「蒲生邸事件」。これは書簡体小説ではないけれど、ラストの手紙が、好き。大した話じゃないし、時代考証面でもいかがなものかと思うところはあるけど、好きといったら、好き。宮部短編には「たった一人」というのがあって、近い系譜。
本人にはどのみち聞こえないだろうから書くけど、宮本は昭和47年、作家デビューの数年前に池田大作とかいうのに帰依している。でも、初期のいわゆる川三部作「泥の河」「蛍川」「道頓堀川」およびこの「錦繍」「優駿」「幻の光」には、のちに露骨に顔をもたげてくる池田大作とかいうの的な気色の悪い paternity が、ほとんど出てこない。「錦繍」はよいと思う。「幻の光」も、江角マキコ込みで、よい。ともに、とりわけ前者は、狙ったのか天然かはわからないが、書簡体の秀作。
番外で、沢木耕太郎「檀」も。
「檀」は、こっちに書いたからいいや。すみません。(ずぼらな日本のわたくし)
福田恒存
土曜日の猫さんくらいのロゴス人なら、全集買ってもいいかなと思うけど、まあふつう買わないよね。いま手に入るのかな。福田恒存のいいところは、ひところは新潮の「シェイクスピア」の薄い本の解説が、訳とともにとてもよくできていて、1冊ずつ入手可能だったこと。中でも、「オセロー」はいい。
で、ここから先は独自研究、珍説の類なのだけれど(書簡体とも関係がない)、妻の不義を疑う話に、藤沢周平「盲目剣谺返し」というのがあって、「武士の一分」として確か木村拓哉が演じた。藤沢は「オセロー」を下敷きにしたのではないかと僕はずっと思っています。だれか研究してくれないかな。
なんだっけ。福田恒存。福田先生の著作は、右翼っぽくて(というか右翼)手に取りにくいのですが、だまされたと思って比較的マイルドな次の2作から入ってみるといいです。
下手な恋愛論を読んで時間を無駄にするくらいなら「私の幸福論」をお勧めしたい。というか、福田先生はかなづかい論と恋愛論(「私の幸福論」がまさにそれ)以外は読まないほうがいいというくらい。あ、憲法論は読んだほうがいいか。
じいさんに、心地よく説教されている気がする。同じじいさんの説教でも、小林秀雄はこいつ人間性に問題があるなという叱り方なんだけど、福田先生は、格調が高い。ことばを大切にされてきたからだと思う。とかいうと小林本居が怒るんだろうけど、秀雄宣長は若い時分から、けっこうなってないぜ。
哲学科出身の偉人
逆説を書くよ。
東大文学部哲学科が生んだ現代最高の偉人は、ナベツネ。もうほんといい加減にしてほしい(笑)。
そのナベツネに関しては、俺よりもちゃんと怒ってくれている人がいるので、締めとしてノンフィクションを並べておきます。
この2冊。出世作は瀬島龍三なんだけど、俺はこっちの2作のほうが好き。
やっぱり落ちなかった…落ちに代えて、つぶやいておきます。
落ちに代えて
子供はじぶんの言葉を持っている 拙くとも、じぶんの言葉で話してくれる 大人になるとほとんどのひとが、どこかで聞いたような借り物の言葉で会話を成立させていてbotみたい
— Drink me@GW原宿展示 (@drinkme_tokyo) 2016年4月6日
今朝、たまたまNHKのまちかど情報室を見ていて、「糸でつなげたドミノ」。
お父さんかな、お母さんかな、
やり遂げたあとの達成感を感じてくれるのは良かったなと思う。
って。子供の感性に「達成感」なんていう語彙を持ち込んではいかん、と思いました。「勉強しなさいとはいってないでしょ。結果を出せばお母さんも口うるさくいわないのよ」っていわれて、結果ってなんじゃらほいどこの国のことばって思いませんでしたか。
今回もまた、お粗末さまでした。
追伸
リアル書簡体。
いちど足を運んでみたい。