illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

オフコース×山際淳司/クールでアンニュイな解散劇(1982)


82'オフコース インタビュー - YouTube

 良くも、悪しくも、しりきれトンボであったと思う。いつまでつづけようが、あるいはいつ解散しようが、第三者があれこれとコメントすべきものではないと思うし、どうでもいいことだとも思うが、オフコースというグループの末期に若干の関わりがあった第三者として勝手なことをいわせてもらえば、オフコースは、じつになんというべきか、早漏であったのではないか。

山際淳司「はしがき」角川文庫『Give up オフコース・ストーリー』P.14

 以前の記事で山際淳司が生涯で2.5人(箇所)、名指しで取材対象を批判している(山際さんには極めてめずらしいことだ)と記した。1人は元木大介であり、そのぶざまなさまはいまさらいうまでもない。0.5人がデビュー間もない、完全な人気先行の香川伸行に対してそれとなく苦言を呈するもの。もう1箇所がオフコース82年夏の「解散劇」(結果としては約3年間のライブ活動停止)に対するものである。


ボックスに入り、マウンドに立つこと/1989年ドラフトの2人の選手について - illegal function call in 1980s

 80年の「江夏の21球」の成功によって山際淳司という名前はノンフィンクション・ライターとして知られるようになっていた。しかし後年いわれるような「スポーツ」の冠は淡い。34歳の山際淳司はまだ可能性を探っていた時期にあたる。その山際にオフコースの取材の話が持ち込まれる。彼はいつものようにまめだ。関係者の話をよく聞いている。聞き記す。そうしてまとめられたのが『Give up オフコース・ストーリー』だが、上梓するにあたって彼は「はしがき」(キー・ノート)を記している。そのもっとも辛辣と思える一節が上に引用した箇所である。

 かいつまんでいえば小田和正鈴木康博も早まったのではないか、何か未消化の部分を残したままなのではないかといっている。「書き手であるぼく自身は、極力、傍観者の位置を動くまいとした」(P.15)と断っておきながら、何か湧き出す思いを抑えきれずに、ずばりと切り込んだような手応えを感じさせる部分だ。

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 ここには山際さんの(彼みずからはあまり表立って口にすることのない)特質がよく現れているように思う。

 山際淳司という作家は本質的に「通過儀礼」「次へのステップ」のためにリスクをとって生き方を切り替えていくタイプの男に惹かれていたように思える節がある。たとえばシングルスカルの津田真男。彼は東大をあきらめ1浪して入った東海大学でも麻雀と酒にあけくれ日々を流されてしまう。そこで津田は思う。「オリンピックに出て金メダルをとろう。そうすれば何かが変わるんじゃないか」。この思いつきに津田は20代の5年間かそれ以上を賭ける。彼は80年のモスクワ五輪シングルスカル競技日本代表に選ばれる。果たして日本は80年のモスクワをボイコットするのだが、しかし、山際さんは「たった一人のオリンピック」という作品全体を通して津田真男青年への賛辞を惜しまない。みなぎらせている。張り詰めている。


もうひとつの「たった一人のオリンピック」 - illegal function call in 1980s

 クールな山際さんには珍しい筆致と魂の震えが、25年が過ぎようとしているいまでも僕たちの胸を共振、共鳴させるのはそのためだ。そこには「包み込もうとする」山際さんの作風が絶妙なアレンジが機能している。敗者は山際さんの魔法の包み紙にくるまれることで彩りを添えられるのである。なんというか、うらやましい。

 しかし『Give up オフコース・ストーリー』にはそれが(オフコースへの、そして小田への戦略的訣別を告げようとする鈴木に対するエールを別にすれば)ほとんどない。その大きな理由は小田も鈴木もほかの3人のメンバーも大人として意を尽くそうとしないことにある。衝突を回避している。少なくともそのように受け取れる。音を通じてわかりあえる、だから言葉にすべきことはないのかもしれないけれど。そして読者はそのことを感じているであろう山際さんの視点を通じて、小田や鈴木よりも山際さんの置かれた状況に漠然とした同情すら覚える。それではこのノンフィクション作品の物語としての切れ味が増すはずがない。

 小田和正と、取材の最後に話をしたときのことを記しておこう。

 彼はこう語っていた。

 「オフコースっていうのは、珍しいくらい音楽という部分で結びついていたグループだと思う。……考えてみればみんなバラバラなんだけど、共通していることが一つ、あったと思う。それはみんな音楽というものに偏見がなかったということだろうね。自分が偏愛するものだけを認めてそれ以外は音楽じゃない、なんていうのは一人もいなかった。それぞれが、他の人が好きなものを認めて、自分も本気になってやってきた。音楽のいいところは理屈や趣味のレベルをこえて認めながらやってきたということだと思うんだ」

前掲書P.237

 「ある人にこういわれた。片方で解散という問題をかかえながら、オフコースはそれ以前よりもずっといいLPを作ってきた。……それが不思議だというんだ。片方で解散という問題をかかえながら、作るレコードはどんどんよくなっていく。なぜなのかわからないといわれた。おれはね、いいものができてしまうときは人間関係の部分を超越して、ちゃんといいものがでいてしまうということだと思う。少なくとも、おれはそうだね。作り手がきちっと自分の作品に対峙していれば、いいものができてくる」

同P.238

 正論であろう。そして、小田和正のこの種の知性と感性は、おそらく、山際に語るまでもなく、鈴木康博との間で共有できていた。マネージャーでありプロデューサーでもある上野博がオフコースの顔として小田和正をまず走らせることにした(それは当面、鈴木が二番手で走ることを意味する)状況と意味を、鈴木は理解していた。小田も、もちろん、自分の役割と鈴木の立場から見た葛藤を理解していた。

 心優しきミュージシャンたちによる玉虫色の解散/活動停止劇。

 しかし人は、男というのは、果たしてそんなにものわかりがいいものだろうか。そんなふうに、心ひそかに、山際淳司は思わざるをえない。

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 それでも、本書の全編を通じて、いかにも山際さんらしい丁寧な仕事ぶりが伝わってくるのはさすがである。そのひとつの例が、ファン以外にはあまり知られていない、オフコースの前史にかかわったさまざまな人物の断片、シルエットを丹念に拾って挟み込んでいることだ。そのいくつかを箇条書きで紹介しようと思う。

  • オフコースとイルカが一緒にルイード(新宿にあるライブハウス)のステージに立ったことがある。小田は鈴木に「これから<オフコース+イルカ>でやろうよ」と提案するのだが、そのアイディアは鈴木に反対され、小田が頭を下げる形で収まった(P.108-9)。
  • オフコースNHKステージ101」のレギュラーの話が持ち込まれたことがある。小田はこれを拒否する。「だって、歌って踊ってみたいな番組だろ。あそこまではいくらなんでもできないぜ」(P.139)。
  • 鈴木はヤマハがつくろうとしていたグループにアルバイト的に参加したことがある。そこで踊りの上手なある女性から「あんた、下手ね」とダメ出しをされている。彼女の名前は桃井かおりといった(P.140)。
  • 1972年の東京音楽祭で小田は控室ですぐ隣りに座っていた歌手と次のような会話を交わす。小田「いい声が出ますね。さすがに」。相手は逆にこういった。「いや、あなたたちのほうが好きな音楽がでいて、うらやましいですよ」。布施明である(P.141)。
  • 6月23日の武道館の公演には登板を翌日に控えた星野仙一が訪ねてきている(P.214)。

 ファンの1人として当時のオフコースのとった「見せ方」に不満がないわけではない。音楽業界方面への知識に乏しく、オフコースのファンである以前に山際ファンでもある僕には、しかしグループへの批評など及びもつかない。

 そこで山際さんの視点から、『Give up オフコース・ストーリー』はなんというか微妙な本ではあるけれど、逆にいえば、彼のノンフィクションライターとしての技(包み紙)の広さと、それと背中合わせの制約がみえてくる、貴重な1冊ではあるという立場から触れてみることにした。70年代、80年代前半のニューミュージック(前)史およびそのゴシップとしても十分に味わい深い1冊である。

 

 


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