illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

仕事を終えて職場の階段を降りると大手町のビル街が見えてくる。僕はその光景が好きでよく(むやみに)登ったり降りたりたりしている。晴れの日も雨の日も。早朝も朝も昼時も夕方も帰るときにも。

(…うどんだ…)

と僕は思った。何者かが僕にうどんのイメージを送ってきた。送り込んできた感じがあった。そのとき僕はくーちゃんのことを思っていたから、くーちゃんがうどんのシルエットをどこか空の彼方(彼方…? 意外に近いのではないか?)からキャッチして僕に伝えようとしてくれたに違いなかった。

(…僕だけでは…ないらしい…)

くーちゃんのやさしいきもちさんが僕にそう告げていた。

1Fまで降りると(僕の木曜日のデスクは6Fにある)(大手町のこんなところにはあるはずのない)うどん屋を探した。

*

前にもこんなことがあった。16年前の秋のことだ。僕はなぜか無性にコーラが飲みたくなり、そのころ住んでいた練馬区高松のマンションの階段を駆けおりた。憑かれたように自販機まで走って歩いて、コインを投入してコーラを握った。そのときもやはり階段から、ただし目に映るものは違って光が丘のマンション街が、環状線が、淡く僕の目を捉えた。うどん屋を探しながら僕はそのときのことを思い返していた。

*

お遍路に出ようとする人形(ひとがた)をした椎茸が僕の前に浮かび上がった。

祈りを捧げる女の人、男の人のシルエットが神田の交差点に浮かんだ。

彼らは(…うどん…うどん…)と念じていた。椎茸があるなら葱と鶏があればいいのにと僕は思ったが黙っていることにした。彼らには彼らの事情と流儀がある。僕はそういったものをわりかし重んじるほうだ(こう見えて)。

そして、しばらくすると、ずっと後ろのほうからデコレーションケーキが歩いてきた。だれかの誕生日が近いのかも知れなかった。もっとも、秋葉原の徒歩圏内だから何が歩いてきても不思議ではない。事実、街の人も勤め人も気にするそぶりは、まるで何一つなかった。

そうして、それらがすぎると春の匂いがした。僕の目には、街を行く人の何人かが笑顔になったように見えた。

けれど、とても惜しまれるのだけれど、16年前と比べて慎重さを覚えた僕は、そのうれしい気持ちを黙っていることにした。

*

以上は僕が今日、2018年4月19日午後7時35分過ぎに、大手町と神田の間、鎌倉橋で見た一部始終である。うどんは、週末に茹でることにした。

おれとくーちゃんの関係には今後幾多の論文が出揃うだろう。

本質は例えば次のようなところにある。

くーちゃんが「めーう」と鳴く。おれは「くーちゃんごはんですか」と尋ね、水とごはんを用意して差し上げる。くーちゃんは「ふにゃふにゃ」と鳴き、ごはんには手を付けない。しっぽさんをひらりとさせ、窓辺へ、ロフトへと後退する。

おれは女に忠誠を試されるのを何より嫌う。くーちゃんへの忠誠は毎日毎時間でも示していたい。たいへんに喜ばしい。

自慢じゃないんだ。ただ、悲しくなって書いてる。

おれの生まれ育った家は建坪200、門塀までの庭が680だか800だか、他に田畑が聞かされているだけで2,000あって、緑の季節、朝目覚めるころには庭先から職人の樫や松に梯子を立てかけて腰を乗せ、鋏を「ちょきちょき」「ちょきちょき」させる音と姿が自然に窓越しに映ってきていた。昭和55年ころの話。

*

そのすべての差配を握っていたのがおれの大正生まれのばあさん。ばあさん、3時半から起きて庭の見回りをしてるからな。職人に怪我や、目に見えるようなうちの恥があってはならない。釘を拾い、井戸まわりのどくだみを伐採し、小石を寄せ、大谷石のひび割れに印をつける。

そりゃ見事なものだった。おれは思った。「職人いらないんじゃないか」。それらの一連をなぜおれが知っているかといえば、たまに早起きしてばあさんの後をひょこひょこついていくからだ。おれは取りこぼした枝切を拾い集め、火にくべ、冬場なら暖をとる。夏はやっぱり火にくべるのだが、暑いので水をかぶる。

うちにはプラムの大きい木が生えていて、そこに上ってもぎるんだ。プラムは伐採がほとんどいらないからおれたち子供が面倒をみる係り。街の学校にあがってカルチャー・ショックを受ける12、3歳まで、おやつは木には生えてるのをもぎって水にながし、水を浴びてからがぶっと食べるものだと思っていた。

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職人は6時か6時半にくる。10時にお茶だ。おれ(2歳)がはじめて他者に発した言葉として史書に伝承されているのが「だいく、おちゃ」である。そのころ離れを改築していておれの目には職人と大工の区別がつかなかった。1975年のころの話しだから大工にせよ職人にせよ1945年とか50年とかの生まれだったろう。後に知るのだが10時過ぎ、ばあさんは縁側に呼び寄せた職人衆に少々の日本酒(けほけほ)を出していた。すごい度胸だ。栃木の烏山に島崎酒造東力士という造り酒屋がある。うちは戦前からのつきあいでばあさんは贔屓にしていた。甘口(旨口という)で、大人になって知ったのだがこれがやたらめったら甘くてうまい。滋養がつく。聞けば那珂川水運に手を貸した男衆が汗を流した後でこれを呑み何らかのミネラルだか幸せを補ったという。ばあさんはそういう習わしを重んじるたちだった。

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職人には13時ごろに食事を出す。これがまたうまい。なぜおれが知っているかといえば中学くらいから午後を自主休講することを覚えたからだ。出汁の効いたそれでいて薄味の、ほうとう。それに(ここがおれには到底まねのできないところなのだが)旬の魚と、菜の花のおひたしと、だし巻きと、鶏肉と、その彩り。おれは職人から「上のおにいちゃん」と呼ばれていた。「おにいちゃん、xx高校(地元の進学校)に行くのか」「そりゃ立派だ」「うんと偉くなって俺たちの暮らしをよくしてもらわないとな」「俺たちは学がないからな。はっはっは」

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職人の何人かとはその後も交流が続いた。ばあさんが続けてくれた。おれはこれを「羊羹外交」「島崎酒造外交」とひそかに呼んでいる。うちひとり(親方格)は離れが最終的に(足掛け10年とか15年とかにわたったのだ)落成するときに腕利きの鏡職人を紹介してくれ、上がり框の漆喰に大きな姿見をはめ込み、磨いてくれた。おれは学校をサボってその様子を後ろからよく見ていた。

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震災のとき、おれはどうしてだか分からないけれどもその鏡職人と親方に連絡をとりたいと思った。うちも震度6強で被災し大谷石が根こそぎ崩れた。火事こそなかったけれど地下の水脈が変わったのだろう、庭木の、葉の、色やちょっとした出方が変わった。水の味も変わった。

上がり框の鏡には、親方の電話番号が昔の市外局番から朱で乗せてある。おれは安否を確認する目的以外でも、(寧ろ)そんなことはどうでもよくて、親方と何かしら話がしたいと思って電話をかけた。「ああ、上のおにいちゃん」と親方は覚えていてくれた。「ご無事でしたか。足腰を悪くしちまって、外に出られないんです。いえ、地震とは別で。何かあれば若い衆を行かせますから。お館様(ばあさんのこと)はお元気ですか、そうですか、お亡くなりになりましたか」

鏡職人さんはいまでも地元で、とおれは訊いた。

「ええ。あれは結婚して、工務店をやってます。地震は、大丈夫だったようです」

ひとしきり、昔話をして、おれは近所のあちこちで崩れた大谷石を積みに、家の前の通りに出た。

「上のおにいちゃんですよね」

何人かが、おれの姿を認めて、話しかけてきてくれた。ひとりは隣の家の人だった。

「すみません、大学に出て以来、ろくに戻って来もしませんで」とおれはいった。

東工大を出してインターナショナル・ビジネス・マシーンズに息子(おれの前の代の地元の秀才)をやって、昭和60年ころに過労とうつで亡くした、隣の八代さん。おれを見つめ、手を握った。「上のおにいちゃんですよね。怪我はなかったですか。石を積みましょう」

おれは石を積んだ。おれの震災の思い出は斯様なものである。

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あるプロフェッショナリズムの話(1)

仕事、あるいはプロフェッショナリズムの話をちょいとだけします。

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カープ高橋慶彦が日本プロ野球史上最高の遊撃手であることは論を俟たないと思われます。それは上手い、ヒットや盗塁を量産したからではない。高橋はときどきエラーをする。頻繁に盗塁死をする。それでいて上手い。その振幅の大きさが見るものに《高橋が眠らせている》《まだそこにないもの》を予感させる。つまり女だったら立ちどころに抱かれてしまうだろうとわたくしは力説している。

海老沢泰久高橋慶彦を好んだというのはわたくしにとっては意外だった。おそらく海老沢を捉えた核にあるものは、高橋の《ある部分》だったろう。

高橋が教えてくれたところによると、二軍のほかの選手と一緒にグラウンドへ行ってチームの練習をする。ウエスタン・リーグの試合があるときは試合をする。彼の練習がはじまるのはそのあとで、合宿に帰るとそのすぐそばにあるバッティング練習場へ行って、一人でバッティング・マシンが打ち出すボールを三時間ほど打ちつづける。バッティング・マシンは、あらかじめボールを入れておくと自動的にそのボールを打ち出すようになっているので、一人でも練習ができるのである。それから彼は夕食をとり、夕食がすむとまた練習場に戻って二時間打つ。そして最後は合宿の部屋に喉ってバットの素振りを一時間おこなうのである。

「それを三百六十五日、毎日やったんです」

と高橋はいった。「まあ、異常でしたね」

海老沢泰久「秋の憂鬱(高橋慶彦)」文春文庫『ヴェテラン』P.235-236所収)

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今回このぼくの記事では引用しませんが、たとえば落合博満西本聖大下弘、みんな、若手の一時期にはこういう時期をすごしています。それから、みなさん国語や道徳の教科書を読みすぎか読んでいないかで想像が難しいでしょうが、カープ入団後まもない(~1968、9)衣笠祥雄というのはとにかく遊び歩いていた。成績も伸び悩んでいます。頑丈な身体を持て余したのに加えてのスピード狂。夜な夜な走り暴れ回っていたといいます。

それを改心(諦念)させたのがコーチだった関根潤三さんです。関根さんは柔和な表情のイメージがありますがとにかく球界で1、2をあらそう怖しい方らしい(大好きです)。1970年のあるとき衣笠が関根コーチの課した素振りをサボって夜の街に繰り出して明け方に合宿所に戻ってきた。関根さんを含めみんな寝ていると思っていると玄関の前にバットをもって腕組みをした人がいて、にっこり「おかえり。やろうか」と声をかけられたとか。

衣笠の連続試合出場記録は関根さんがコーチに就任した1970年の秋に始まっています。1970年10月19日。ぼくはこれをひそかに「衣笠祥雄の10.19」と呼んでいます。かれの打撃成績も翌1971年から目に見えて伸びている。

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「まあ、異常でしたね。コーチの人にも、体をこわすからもうやめろと何度もいわれましたよ。でも、ほかにやることもなかったんです。だって年俸が百二十万だから、月に十万でしょう。合宿費を払って、グラブやスパイクを買ったら、もう三万か四万しか残らないわけですよ。給料日が二十五日だから、そんなもの、もうその月のうちに使っちゃって、新しい月にはいったら一銭もない。外で遊ぼうかと思ったって、出て行けないわけですよ」

(前掲書P.236)

カープは1975年の初優勝のあと少し反動の時期を迎えます。関根さんと同じ年に関根さんに次いで球界で怖しいと称される根本陸夫さん(大好きだ)が招聘した広岡さんも、もはやカープにはいない。監督の古葉竹識さんが手綱をゆるめたというのではありません。わたしはむしろ黙っていてもヨシヒコのような練習の虫がひとりでにぽつぽつ出てくる当時のカープの空気、土壌というものこそ、根本さんが残し、古葉ちゃんが守ったものだと思います。

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自分の話をします。

ぼくは転籍転ポジション(昇格)をしてから1年間は毎朝6時に出社して8時30分までにその日ひとりでできる分の仕事は片付けようと決めました。社長にも担当役員にも初回の面談時に宣言した。いま営業部長兼経営企画部長の職にあります。きつい(実にきつい。会社はホワイトだがおれはブラックである。うむ。そのメンタルの揺れは鳥の世界などでみなさまの気分を害し眉をひそめさせることもあろうかと思います。申し訳ない)。

しかし2017年9月から半年、これを続けてぼくはうれしかったことがある。きのう社長秘書が「メンヘラさん(ぼく)が出た会議はそのあとで何となくみんな笑顔になります」「みんなメンヘラさんがきてくれてよかったと思ってます」「社長が《あの男は不思議だ》と話していました」とこっそり伝えてくれた。

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同じ海老沢泰久がヨシヒコと同様にやはり若いころに練習の虫で鳴らした西本聖のドラゴンズ移籍後デビュー戦のことを、彼、海老沢の最大の持ち味である、抑制しつつ万感を込める例の筆致で記しています。

1989年4月12日のスワローズ戦のこと。結果を先にいえばその日のゲームは延長12回に4-3でさよなら負けを喫します。セカンド仁村徹の不運なエラーによるものでした。西本の前年ジャイアンツ最終年度のシーズン成績は64イニング3分の2を投げて4勝3敗。多くのファンや評論家が西本限界説に傾いていました。

その、7回裏のことです。

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七回裏のスワローズの攻撃を抑えて、その日何度目かのアンダーシャツの交換のためにベンチ裏へ出ると、ベンチのほうで新しいチームメイトたちが口々に何かいい合っている声がきこえてきた。彼らは西本には信じられないことをいい合っていた。

「西本さんがいいピッチングをしてるんだ。なんとかして西本さんに勝たせてやろうぜ」

西本は感激した。彼はジャイアンツでは攻撃陣のそういう声をきいたことは一度もなかった。西本が投げているときばかりでなく、江川が投げているときでも同じだった。ジャイアンツの選手は誰でも勝たねばならないとは思っているが、誰かのために何かをしようとは誰も思っていないのだ。

 (「嫌われた男」前掲書P.49-50)

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西本はこの89年に初の、生涯ただ一度の20勝を記録します。

今回のテーマでいえば、西本を支えたのは、若い時分、多摩川にあるよみうりランドの練習場まで、往復の電車の中をつま先立ちで鍛えたハムストリング(当時は必ずしもそうは呼ばれていませんでしたが)だったとわたくしは信じています。

そして付言すれば、そのようなプロフェッショナリズムを西本に叩き込んだのは、プロ選手としては不遇不運におわった兄の西本明和でした。明和の練習量には広岡さんも同期の三村敏之も舌を巻いたという話が今日まで残っています。

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(この記事は熱烈なカープファンと音に聞く id:kozikokozirou さんと、敬虔なドラゴンズファンに違いない id:kash06 さんへの日頃の謝意のために構想された節がある。ヨシヒコの話は今回書ききれなかった続きがあるのでお楽しみに)

ヴェテラン (文春文庫)

ヴェテラン (文春文庫)

 

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稲垣潤一アンパサンド(男とぅぉぉぉ女ぉぉぉんなぁぁぁ)

anond.hatelabo.jp

少し、稲垣潤一の話をします。

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秋元康を加えたら稲垣潤一のベストは「ドラマティック・レイン」でしょう。この曲は秋元の明治大学に(かりそめの)籍をおいていた葉書職人時代の集大成という感じが濃厚にします。わたしはくーちゃんを看取ったら秋元をきっと刺しにいくとたびたび公言しているが、秋元のこれだけはいい。めっちゃ、力が入っている。「ドラマティック」と「レイン」を曲調にのせて切る。がんばったよね。わかるよ。工夫したんだ。

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「男と女」のところも遠近感が絶妙で、たとえば後の「雨の西麻布」の男と女と比べてみればいい。「そして女は濡れたまま」「そして男は背中を抱いた」「車のライトが悲しいね」これらはすべて「ドラマティック・レイン」の抜け殻、秋元自身の、成功を収める予感に昂ったギミックです。「雨の西麻布」は、わたくしの昼のしごとでの契約獲得に貢献していただいているが、心中わたしは泣いている。苦虫を噛み潰していることを秋元と後藤以外の世界の全員には知っていてほしい。六本木心中。

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稲垣潤一だ。

80年代90年代と稲垣のことはあまり好きではなかった。もちろんかなり好きで口ずさんだ。だがずっと聴くには当時は合わなかった。なぜか食傷するんだ。池田聡楠瀬誠志郎郷ひろみではない)や大沢誉志幸に気を移し、それにしても不思議なのは諸君、岡村靖幸の命脈の長さしぶとさだとは思わないか。

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稲垣潤一である。

かれのよさを最近になって再発見した。ここから先の筆は不要だろう。なぜかれはあの角度でマイクを持ちそれでいて不自然ではなく(めっちゃ不自然さを感じさせつつ稲垣だからと許容させたのがこの30年のおれたちの文化の成熟だとしたらおれは先陣を切って許すだろう)、この人はおれたちがしらない間に古典芸能に上り詰めたのだと深い感慨を催さずにいられない。数ある相聞歌の中で小柳ゆきとのものが出色。

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相聞歌? そう。男女が代わる代わるに歌を詠むと、そこには何かしらの色(中世古文的な意味で)が出る。古来愛された歌の形式のひとつ。湯川れい子/吉川晃司/アンルイスの「六本木心中」にわたしたちが思わず膝を打つとしたら、それは6世紀7世紀8世紀の何かがまだわたしたちの中に息づいていることの示唆だろう。

(見つからないので別の名曲を貼る。)

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この機に乗じていい添えれば「ロング・バージョン」は湯川れい子の仕事のもっともすぐれたひとつ。激しく静かに胸を打たれる。

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男と女3

男と女3

 

 

現代文教科書「発展学習」

いいか、みんな
(゚д゚)
(|y|)

おめかしと生では
何のことかわからないが

生 (゚д゚) おめかし
\/|y|\/

二つ合わされば
色気が出てくる

( ゚д) なまめかし
( \/\/

*

あながちうそではなくて、これは数ある大野晋による語源探求の中でも僕がもっとも気に入っているひとつ。生というのはいまでも生半可、生意気なんていうのに残っているように中途半端、未熟の意味です(意気が一人前でないから生と形容されるわけ)。めかすはおめかし、装う、飾ることです。だから生めかしは装いが未熟であること。

*

けれどそこには平安時代の審美が加えられる。一見、装いが未熟に見える。しかし実は十分に心を尽くされた美に裏打ちされたものであって、あえて未熟に見せる、さりげなく見えるような工夫がなされている。だからこそ、美として最高の姿かたちだという感じ方を、どうやら平安貴族はもっていたらしい。

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「伊勢」や「源氏」には、なまめきかはす(交わす)といういいかたが出てくる。これは、実は心を通わせ合う男女が、しかしそうでない、まだ届いていないのだと、互いに思い遣る気配を周囲が感じ取って、「あのふたりはなまめきかわしている」などと小声でうわさする。そんなときに使われる表現であった。とくに紫式部はよほど用心して意を込めて使っている(と、僕は思う。さすがに源氏はすべて暗唱していないけれど)。

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もうがまんならない。読め。見よ。

*

*

近いのは、この、花輪くんの側の自然さ、かな。

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(ちなみに、検索すると見つかる http://japanmakes.com/nihongo-sonota.html は、丸谷才一からの丸写し。別に僕は(今は)何もしないけれど。)

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室町時代あたりに、それまでの「なまめかし」は、いまに近い、あだっぽい、妖艶だ、の意味に引き寄せられる。しかしわれわれがここで気づくべきは、あることばに人々が知らず乗せてしまう意味が(知らず知らずに)変わっていったとしても、感じ方それ自体はことばの奥底を流れて何かの表現形式に託されるのを待っているかもしれないということ。

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これで終えたらただの論説風エッセイだ。おれはそんな無益なことはしない。

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ダ・ヴィンチ」2018年5月号の穂村弘のページをめくってみてほしい。そこに、諸君もひょっとして目にしている、ある、僕が贔屓にしているブロガーさんの(ものらしき)短歌が掲載されている。実にさりげなく、くまちゃんが鎮座している。

その「さりげなさ」と悲しみは、むかしでいえば「なまめかしきもの」だったはずだ。

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わたくしの優れた調査結果によれば、そのブロガーさんは先の震災に遭われ、その喪失をしばしば歌に託して祈ろうとなさっている。おれが心中スキップしながら書店を後にしたのは、何年ぶりかのことであった。

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出典:船橋海神「書店からくーちゃんまで」

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日本語の年輪 (新潮文庫)

日本語の年輪 (新潮文庫)

 

 

日本語の水脈―日本語の年輪〈第2部〉 (新潮文庫)

日本語の水脈―日本語の年輪〈第2部〉 (新潮文庫)

 

 

現代文講座(05)

季雲納言 id:kikumonagon さんの(いつも変わらない明るい)記事を読んできて申し訳ない気分になり。「死は省察の中心である」と晩年の中上健次は笑って煙草を燻(くゆ)らせていたが、だから死を思うわけではない。けれど一方でやはり言霊というのがある。なるたけ中和になる話をしたい。

*

(1)

(論説文の読解のために)論理回路を覚えてほしい。

  • NOT(でない。deny。than。に非ず。以外)
  • AND(かつ。重なるとき)
  • OR(または。どちらかのとき)
  • XOR(どちらか一方のときに限る)
  • NOR(どちらでもないときに限る)
  • NAND(重なり以外。ANDでないところ)

ベン図を書いて、確かめてほしい。確かめたら、何かしらもっとうまい日本語があるはずなので語彙から探し出して表現してみてほしい。ないかも知れない。

*

(2)

世の中の様々の事象に何かもの申したいとする。態度は自ずと限定的にならざるを得ない。範囲や場合を限定する。その上で事実と具体例をわけ(早速いま話を端折った)、上の論理回路を駆使して(したつもりになって)、何かをいい、結論を導く。世の論説文は基本的にすべてその構造を取らざるを得ない。なぜなら日本語は一息に論理回路に跳ぶにはあまりに不自由でノイズが大きいからだ。しかしだからこそ恋の芽生える余地があるともいえる。恋は説明を尽くしたら終わる。通じない間が楽しいんだよね。

*

(3)

坂口安吾の真似をしてみたが失敗に終わった。しかし論理回路はぜひ身につけられたい。「身につけたい」と「身につけられたい」の違いがもし気になったのなら助動詞から説明を試みてほしい。「身につける」(自動詞)+受け身の助動詞「らる/られる」+他者への希望願望の自動詞「たい」、特に自動詞を先頭に持つ形は、さほど多くないはずだ。自動詞+受動+他者への希望願望はぜひ古文で扱いたい話題のひとつである。うむ。