illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

自慢じゃないんだ。ただ、悲しくなって書いてる。

おれの生まれ育った家は建坪200、門塀までの庭が680だか800だか、他に田畑が聞かされているだけで2,000あって、緑の季節、朝目覚めるころには庭先から職人の樫や松に梯子を立てかけて腰を乗せ、鋏を「ちょきちょき」「ちょきちょき」させる音と姿が自然に窓越しに映ってきていた。昭和55年ころの話。

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そのすべての差配を握っていたのがおれの大正生まれのばあさん。ばあさん、3時半から起きて庭の見回りをしてるからな。職人に怪我や、目に見えるようなうちの恥があってはならない。釘を拾い、井戸まわりのどくだみを伐採し、小石を寄せ、大谷石のひび割れに印をつける。

そりゃ見事なものだった。おれは思った。「職人いらないんじゃないか」。それらの一連をなぜおれが知っているかといえば、たまに早起きしてばあさんの後をひょこひょこついていくからだ。おれは取りこぼした枝切を拾い集め、火にくべ、冬場なら暖をとる。夏はやっぱり火にくべるのだが、暑いので水をかぶる。

うちにはプラムの大きい木が生えていて、そこに上ってもぎるんだ。プラムは伐採がほとんどいらないからおれたち子供が面倒をみる係り。街の学校にあがってカルチャー・ショックを受ける12、3歳まで、おやつは木には生えてるのをもぎって水にながし、水を浴びてからがぶっと食べるものだと思っていた。

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職人は6時か6時半にくる。10時にお茶だ。おれ(2歳)がはじめて他者に発した言葉として史書に伝承されているのが「だいく、おちゃ」である。そのころ離れを改築していておれの目には職人と大工の区別がつかなかった。1975年のころの話しだから大工にせよ職人にせよ1945年とか50年とかの生まれだったろう。後に知るのだが10時過ぎ、ばあさんは縁側に呼び寄せた職人衆に少々の日本酒(けほけほ)を出していた。すごい度胸だ。栃木の烏山に島崎酒造東力士という造り酒屋がある。うちは戦前からのつきあいでばあさんは贔屓にしていた。甘口(旨口という)で、大人になって知ったのだがこれがやたらめったら甘くてうまい。滋養がつく。聞けば那珂川水運に手を貸した男衆が汗を流した後でこれを呑み何らかのミネラルだか幸せを補ったという。ばあさんはそういう習わしを重んじるたちだった。

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職人には13時ごろに食事を出す。これがまたうまい。なぜおれが知っているかといえば中学くらいから午後を自主休講することを覚えたからだ。出汁の効いたそれでいて薄味の、ほうとう。それに(ここがおれには到底まねのできないところなのだが)旬の魚と、菜の花のおひたしと、だし巻きと、鶏肉と、その彩り。おれは職人から「上のおにいちゃん」と呼ばれていた。「おにいちゃん、xx高校(地元の進学校)に行くのか」「そりゃ立派だ」「うんと偉くなって俺たちの暮らしをよくしてもらわないとな」「俺たちは学がないからな。はっはっは」

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職人の何人かとはその後も交流が続いた。ばあさんが続けてくれた。おれはこれを「羊羹外交」「島崎酒造外交」とひそかに呼んでいる。うちひとり(親方格)は離れが最終的に(足掛け10年とか15年とかにわたったのだ)落成するときに腕利きの鏡職人を紹介してくれ、上がり框の漆喰に大きな姿見をはめ込み、磨いてくれた。おれは学校をサボってその様子を後ろからよく見ていた。

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震災のとき、おれはどうしてだか分からないけれどもその鏡職人と親方に連絡をとりたいと思った。うちも震度6強で被災し大谷石が根こそぎ崩れた。火事こそなかったけれど地下の水脈が変わったのだろう、庭木の、葉の、色やちょっとした出方が変わった。水の味も変わった。

上がり框の鏡には、親方の電話番号が昔の市外局番から朱で乗せてある。おれは安否を確認する目的以外でも、(寧ろ)そんなことはどうでもよくて、親方と何かしら話がしたいと思って電話をかけた。「ああ、上のおにいちゃん」と親方は覚えていてくれた。「ご無事でしたか。足腰を悪くしちまって、外に出られないんです。いえ、地震とは別で。何かあれば若い衆を行かせますから。お館様(ばあさんのこと)はお元気ですか、そうですか、お亡くなりになりましたか」

鏡職人さんはいまでも地元で、とおれは訊いた。

「ええ。あれは結婚して、工務店をやってます。地震は、大丈夫だったようです」

ひとしきり、昔話をして、おれは近所のあちこちで崩れた大谷石を積みに、家の前の通りに出た。

「上のおにいちゃんですよね」

何人かが、おれの姿を認めて、話しかけてきてくれた。ひとりは隣の家の人だった。

「すみません、大学に出て以来、ろくに戻って来もしませんで」とおれはいった。

東工大を出してインターナショナル・ビジネス・マシーンズに息子(おれの前の代の地元の秀才)をやって、昭和60年ころに過労とうつで亡くした、隣の八代さん。おれを見つめ、手を握った。「上のおにいちゃんですよね。怪我はなかったですか。石を積みましょう」

おれは石を積んだ。おれの震災の思い出は斯様なものである。

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