illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

くーちゃんには男の子の兄弟がいたと伝わる。いまどこにいるかはわからない。保護された辺りはよく出没する場所で、兄弟も同じく保護されたと聞いた覚えがある。もらわれて、幸せに暮らしていることを信じたい。

この前、健康診断にお連れしようとして興奮させてしまったことがあった。丁寧にかごに収め、タオルケットにくるんだ。衝撃を及ぼさないようにゆっくりと戸を開け、玄関をまたいだのだが、しきりに鳴いて訴えて、これはよくないというテンションになったのを見て、引き返した。かごを下(おろ)すとくーちゃんは一目散にロフトに駆け上った。距離をとって謝りながら追う僕を、くーちゃんは悲しそうな顔で見てシャーといった。それから下に降り、カーテンの陰、はなちゃんの後ろに引っ込んだ。家に見慣れない人を迎えたときにくーちゃんが見せる不安そうな瞳と表情をしていた。はなちゃんはいつもにもまして僕にシャーをした。再びロフトに隠れた後でくーちゃんは許してくれたが、僕のショックは尾を引いた。いまも消えていない。

有事の際、当人(僕)にとってはおおごとでも、大したことのないかのようにへらへらと腰を引く父親のことが思い出された。僕はここが勝負どころだと思い、決してそうはなるまいと、また、ならないのはくーちゃんのおかげだと思って、ひたすらに頭を下げた。絨毯に這って頭を擦り付けた。世界は終わったと思った。

仲直りをして(くーちゃんが鼻を舐めに歩み寄って)くれた後で、気づいたことがある。それは、くーちゃんもまた、ごんや兵十や僕と同じように、本来的には「ひとりぼっちの」ということ。そしてそれは、いまとなっては戻ることの許されない、ポイント・オブ・ノー・リターンの向こう側にある孤独である。あのときあのまま外に、健康診断にお連れして、万一のことがあったら、それは火縄銃で撃っていたに等しい。玄関口、僕は上がり框にいた神のご加護によって、間一髪で難を逃れたことになる。

そんなわけで、近くにマンションを買うことをかなり具体的に考えていたが、しばらくは見送ることにした。くーちゃんが、「ここがいい」と伝えてくれているから。「何が不満なの」と、悲しげな瞳に書いてあったようにも思う。