illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

速報 - 謎を2種類に分けてみては

大変に魅力的な論考で、コメント、あるいはツイートに収めて済ますには余りに惜しいため、言及します。

www.watto.nagoya

確か初期の柄谷(行人)だったと思います。優れた文学作品には、作者自身がどうしようもなく、解くことの出来ない/なかった「謎」が投げ出されている。例えば、漱石「こころ」。なぜ、Kが自殺したのか、先生には分からない。「私」には、先生の遺書が謎めいて見える。

言葉と悲劇 (講談社学術文庫)

言葉と悲劇 (講談社学術文庫)

 

 

漱石論集成

漱石論集成

 

(92年とか93年って僕はこんなことばかり考えていたのですね。)

これらだったかな、あるいは「反文学論」のほうだったかな。

ここに属するのが、謎の第1種。

*

対して、これも柄谷だった気がします、あざとい謎というのがある。柄谷はそのとき金閣寺/豊饒の海を引いてはおらず、引き合いに出されたのは別の誰かの何かの作品だった記憶がありますが、勿体ぶって、作者が作中で謎を明かさない「謎」。「自意識ばかり目立つ」みたいないいかたをしていた漠たる記憶だけがあります。ともあれ、これが謎の第2種。

*

三島由紀夫は非常に微妙で、彼自身、何かしらの「謎」を小説で解こうとしていた節、これはもうぷんぷんしますよね。切腹でなくて生誕の方角で。

と同時に、彼は意地がとことんわるいから、

南泉は、虫歯を抜くように美を剔抉〔てっけつ〕(という語を三島は用いた)するために猫を斬ったのであり、趙州が履を頭に乗せたのは、たとい猫は死んでも猫の美しさの根源は死んでいないじゃないかと諷するためだったと、趙州は虫歯の痛みに耐えるように美の存在に耐えるしかないと主張したのだと、柏木は説くのである。

この部分に対して、わっとさんと僕は仮説の持ち方は違うのだろうけれど、感じ方、センサーの反応の仕方が接していると直観しました。

その上で、僕には、ここ、三島が自説を信じていないで(で、だから、あーもう、日本語の不自由な日本の私悶絶、三島はで、だから、美を信じて)いるときの匂いがぷんぷんします。それでいて、おれが一番この謎の解釈に肉薄しているのじゃないかふふふん、という匂いも隠しきれずにする。というか、謎に迫るのではなく、謎の構造を見抜く例の頭のよさで、何かの置き換えをしている。そしてそして、諸君、それでいて、この謎は三島にとって切実だったのだろうなと、ほぼ確信される。

これが謎の第3種。

三島の自意識は例外中の例外だから、普通に考える場合には2種の大別でよく、いやあ、わっとさん、すばらしいなあ(笑)。すみません、ここ数日寝不足が著しいので、投げるだけ投げて寝ます。おやすみなさいごめんなさいw(言迷木亥火暴

*

(追記)

追記:

dk4130523(id:cj3029412)さんから言及をいただきました。感謝しつつ勝手ながらリンクを貼らせていただきます。

くそっ、悔しい! わかっているんだ。私には、ある種の文学的感性が、それを持っている人々に比べて決定的に劣っているのだ。彼らには感じられても、私には感じられないことが山ほどあるのを知っているのだ! わかってはいるけど、どうすることもできない(`;ω;´)

ご参考まで、私は狭い井戸をへそを曲げながら掘っていたら水が出て「石油だ石油だやっほーやっほー」と叫んでいるだけの生き物で、わっとさん id:watto のサーチライトの視野角、首振りの柔軟性、謎をそのまま謎と投げかけてくださる姿、それがそのまま、読者数の差としてあらはれわたる瀬々の網代木、云々、まあ、こんなときには、黄金頭さんを一緒に読みましょう!w おやすみなさいませ。本当に、なんというか、思考を触発されて、先のシリーズからの今回の記事への展開、お見事でございます。三島にはめられた…