illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

きょう(12/10)はデュークの命日です

きょう(あたり)はデュークの命日です。

つめたいよるに (新潮文庫)

つめたいよるに (新潮文庫)

 

私(わたくし)は江國香織はほぼ評価しないが、「デューク」だけは別だ。これはいい。ちなみにお父ちゃんの江國滋は野暮ったいそれまでの落語評論にモダニティを与えた大先生で、さすがといわざるを得ない。

落語美学 (ちくま文庫)

落語美学 (ちくま文庫)

 

ま、それはよい。

歩きながら、わたしは涙が止まらなかった。二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから、ほかの人たちがいぶかしげにわたしを見たのも、無理のないことだった。それでも、わたしは泣きやむことができなかった。


デュークが死んだ。

わたしのデュークが死んでしまった。

わたしは悲しみでいっぱいだった。

「びょおびょお」は確かにあざといが、まあ許してやってくれ(押切もえがやったら許さないが。というか、例の周五郎賞のあれで猿真似をしている。入れ知恵をしたにちがいない編集者ともに、許さない)。けほんけほん、閑話休題。この、わりとよく知られた一節で始まる奇跡のような短編に、次のような記述があるのをご存じか。

十二月の街は、慌ただしく人が行き来し、からっ風が吹いていた。クリスマスまでまだ二週間もあるのに、あちこちにツリーや天使が飾られ、ビルには歳末大売リ出しの垂れ幕がかかっていた。喫茶店に入ると、少年はメニューをちらっと見て、

やばいやばい。ネタバレになってしまう。

私がけさ何かの啓示をうけたかのように朝の銀座をほっつき歩いたのは故なしではない。私はこういう―クリスマスまでまだ二週間もあるのに―フレーズは決して見逃さない。この呆れた性分ゆえに、しばしば、小説空間と現実を混同するのだが、どうか放っておいていただきたい。

そう言うと、青信号の点滅している横断歩道にすばやく飛び出し、少年は駆けていってしまった。わたしはそこに立ちつくし、いつまでもクリスマスソングを聴いていた。銀座に、ゆっくりと夜が始まっていた。

おっと、やばいやばい。

繰り返す。江國香織のほかの作品はたいして読むに値しない。だが、この掌編は、ほとんど完璧である。どこかの女子大か短大の入試に出題されて受験生からすすり泣きが漏れて試験にならなかったという。むべなるかな。三木助の芝浜のような味わいがある。

*

ものすごくほめた。江國香織「デューク」。これだけでいい。ぜひ手に取ってよんでほしい。私は100回よんで100回なみだし、思わずくーちゃんを愛おしんですりよる(みんな知らないと思うが私はくーちゃんが大好きなのだ)。それくらい、よい。ちなみに山本容子のイラストは、わるくはないが、蛇足である。

小説は、銀座を歩きながら想像するものだ。