illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん(長い)

おれは4年前、2015年7月12日に、キッチンで長い手足/脚をのびのびにするくーちゃんを見て陥落したわけだけれど、たしかにそう書いたのだけれど、ねこを、くーちゃんを受け入れるというのは、生死の間/淡いにわが身を立たせて「生きるのか」と問うことと、ほとんど同義だった。

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7月12日。おれは42歳だった。

布団を天日に晒し、ほかほかのふわふわになったので、ソファの上に広げた。そのころ、くーちゃんはうちに来てくれてまだ2週間で、ようやくねこかぜが治るか治らないかのころだった。週1回か2回、病院にお連れしていっていた。

くーちゃんは、よほど心地よかったのだろう。布団の上で、のびをしたり、丸まったり、あるいは、風邪で辛かったのかもしれない。

「なんじゃこの手脚の長さは…」

と、思って驚いたことをよく覚えている。

おれは60歳まで生きることが果たしてできるだろうかと考えた。

猫の寿命は長く見積もって20年。山際淳司46歳、三島由紀夫50歳、おれのおふくろが52歳で、まあいいところ、還暦を迎える前に、癌かテロでくたばるのである。あるいは、自らくたばりに行く。

*

そのような想念を、やめられるかどうかは自信なかった。いまだってない。

ただ、目の前にはくーちゃんがいて、まだ、目やにを出したり、少し熱が残っていたりする。

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これは7月5日。うちに来てくれたのが6月27日。1週間とちょっと。

ねこかぜがよくならず、通院の傍ら、どうしようかとそればかりを考えていた。ピンぼけだけれど、だから好きな1枚。

くーちゃんは、家に来てくれて間もないころ、Amazonで注文した富士山のおいしい水の箱に収まると、うまく自分では出てこられないことがあった。箱から、おれはくーちゃんを丁寧に取り出して差し上げる。「ぴにゃあ」と鳴かれるので、おれは下僕として生まれ変わった。目やには、風邪の影響だろうと思う。

*

あるいは、ロフトに上がるのはいいが、くーちゃんは自分では下りられなかった。

そこでおれは空き箱を抱えて梯子に足をかけ、はしごの上に箱を捧げ、くーちゃんに「どうぞ。下りておいで」と声をかける。くーちゃんは薄いダンボールが不安なものだから何度かためらう。おれは待つ。「大丈夫だよ、くーちゃん」

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7月25日。くーちゃんが、風邪からだいぶ回復して、そろそろもう大丈夫かもしれないと思えるようなったころの写真だ。生後2ヶ月半。くーちゃんは、外では生きられなかった可能性があったと、このところ、ふと思うことがある。おれのくーちゃんは、生存競争に、向いたタイプではない。おれのくーちゃん。

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8月1日には、もうすっかりよくなっていた。

その1週間後には、くつろげる場所を見つけている。

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さらに、その3週間後。

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長い。長命のメタファーかもしれない。

おれのくーちゃん

デスク・チェアの腰の高さに

アイリスオーヤマで買った樹脂製のボードがある。

そこにおれは衣類を雑に放り込み

その上にAmazonの箱。

中身はパソコンの周辺機器類と本と書き損じ。

 

いつしかくーちゃんが

ひらりぴょん

と通ってくれるようになったので

おれはブランケットを敷いた。

 

くーちゃんはおれがくーちゃんのほうを見るたび

目を細めてくれている。

右肘斜め横後方数十センチ。

くーちゃんは三色のやわらかい肉球

まるですっかり安心し切った寝顔を

惜しむことがない。

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(くーちゃんの屋根に風そよぐ)

英検今日の授業から(中身の薄いトホホ記事です)

今日はTOEICと、英検(準1級)の授業を各1本。

TOEICの後の中休みに、よく質問に来てくれる生徒さんから「先生、スタディサプリってどうですか。先生の授業よりもいいですか」と(冗談交じりに)尋ねられました。私が答えた骨子は次のようなものでした。

  1. スタディサプリ、聞き及ぶ範囲で、悪くはない。ただし、英語の本質、というか、学究的な意味も含めて、「英語とは」をしっかり根付かせたいなら、僕の授業のほうがいい。
  2. スタディサプリは、ある程度、「期間限定(短期集中)」で「試験の点をとらせる」ことに向かっている(当たり前のことのようだけれど)。僕は違う。僕は「大崩れしない」「長く負けにくい」英語体質を身体になじませることに重きを置く。それが是という結論に達した。
  3. つまり僕のスタンスは、スタディサプリ的なものに、負ける(笑)。

「とかいって、負けているつもりないでしょう(笑)」と、彼女、その生徒さんはいいました。津田塾を出て数年、会社勤めをしながら、副業で実務翻訳家を一旦は目指したのだけれど、「日本人にとって英語とは」につまづいて、それなら基礎固めからと、1級を目指している(!)方です(さすが津田梅子の薫陶)。現在、900点、準1級。僕とそう変わりません。

*

違いがあるとすれば、説明原理と、日本語かなあ。

*

おれはさんざん、英語に負けてきたからね。どうすれば負けるかなら、わかる。それをいったら、日本語にもさんざっぱら、やられてきた。

「実像の(弱い=おれのこと)宮本武蔵か」

とか、そんなことを思いながら、その生徒さんを含む、20人ほどに、先ほど、明日の2次に向けた個別のポイントを、予備校のウェブサイトを通じて送り終えたところです。

*

言葉が通じるって、何だろうね。トホホ (´;ω;`) まあ、おれが負けても、生徒さんたちは受かるから。大丈夫。つらいなあ。

TOEIC今日の授業から/英検とのいわゆる換算点のことなど

こんばんは、船橋海神です。今日は某所でTOEICと英検準1級の授業を各1コマ行ってきました。英検は大学1年の秋に受験勉強の余勢をかって準1級をとっておいてよかったです。1級は常人には無理です。普通の日本人が普通の努力の延長で行けるのは英検準1級までというのが持論です。

では今日もTOEIC受験の考え方と、実践問題をいくつか。

英検とTOEICの換算点について

相互乗り換えという意味ではそんなものは存在しません。特に、TOEICで何点とれたから英検なら何級相当というのはありません。

逆ならありえます。英検2級とってください。高校で英語の授業をちゃんと受けて卒業したくらいのレベルです。これがTOEICでは500点くらい。英検準1級なら、まあ750点。反対に、TOEICで500点とれても英検2級は約束できません。750点で準1級も同様。理由が気になるかもしれませんが、対価を得ていないブログ記事にそんなめんどくさい話はしません。

とにかく、教える現場でも、TOEICで点がほしい生徒さんには「まず2級を受かってください」と伝えています。そしてしばしば嫌な顔をされます。けれど「まず2級を」というのには理由があって、2級程度も受からないようでは、その先のTOEICの伸びしろがなく、ビジネスで使い物にならなくなるのが目に見えているからです。

英検2級はビジネス英語の足腰です。めんどくさいといいつつ理由に少しだけ触れると、ひとつは、TOEICのほうが対策をとりやすい試験だからです。試験慣れすれば、400点(英検3級=義務教育修了に毛の生えた程度)は行きます。その安直さがかえってマズいのです。

TOEICの過去問やサンプル問題から何を学ぶか

これが重要です。いくら数を解いたって無駄です。1問からできるだけ多くのエッセンスを引き出す。それが自力でできるためには、せめて大学入試の2次試験で武器になるくらいの英語力が基礎として備わっていてほしい。センターはやさしい部類ですから、200点満点で最低160点以上、できれば180点はほしいところです。

それがもし、自力では無理というのであれば、いい先生についてください。あるいは、ご自身で10年20年をかけてください。自力で35歳600点なら、まあダメですけど、まずまずではありませんか。

話を戻して、多くの参考書、対策本は、売りたいがためのものです。出す側の目線になってみれば、購入者が受からず点が出ず、あれこれ手を出したり、毎年改訂される最新版を重ねて購入してくれたりしほうが、おいしい。自明です。

ということは、1冊で本当にできるようになってしまう対策本は企画、執筆されません。ほどほどに教え、ほどほどに力がつかないようにできています。本当です。だからみなさんは毎回、点が出ない。カモにされているわけです。

英検2級と準1級の間くらいの力がつけば、その蟻地獄から抜けやすくなります。すなわち、いつ何時(なんどき)からでも、自分で足腰をしゃんとできるようになる。よほど大きな制度改正がなければ、1円プラス送料の古本だって十分なんです。幕末開国期の知識人なんてみんなそうやっていました。適塾のみなさん、勝海舟小村寿太郎。現代だって同じです。

今日の実践

https://www.ets.org/s/toeic/pdf/listening-reading-sample-tests.pdf

101. Register early if you would like to attend next Tuesday’s ------- on project management.
(A) seminar
(B) reason
(C) policy
(D) scene

間違いようがないですね。(A)。プロジェクトマネジメントに関する今度の火曜日のセミナーに参加を希望される場合には、早めに登録してください。

1つの問題からできるだけ多くのエッセンスを引き出す。という話を先ほどしました。その観点では4つ、あります。(1) onは、論文などでしばしば見かける、主題を表すonです。「ついて」「関する」。やや格式張った、文語と聞いています。aboutよりも短いので書面や掲示で好まれる傾向にあるらしい。(2) attendは、他動詞です。直接、前置詞なしで、目的語を伴います。この手の他動詞で他に有名なのは、joinです。(3) seminarは、専門家会議という意味をこの機会に覚えておいてください。大学などのゼミという意味はいうまでもなくご存知かと思います。(4) earlyは、(時期やタイミングや時間帯が)早く、早期に、です。fastは、(速度が)速く。promptlyは、迅く。てきぱきと。遅滞なく。

*

102. Paul Brown resigned last Monday from his position as ------- executive of the company.
(A) fine
(B) chief
(C) front
(D) large

これも間違いようがない。英語のというよりは現代のビジネスシーンで常識の、といったほうがいい出題です。(B)。ポール・ブラウン氏は先の月曜日に同社の最高(経営)責任者から退いた。あるいは「~の立場を降りた、辞任した」。

この問題は多くを引き出しようがないのですが、2つ、3つ…かな。(1) 日本語でもしばしば用いられるようになったCEO、これ、何の略語でしたか。調べておいてください。ビジネス英語ではchiefにカタカナ語でいうチーフ=主任/班長という用例はまず滅多に出てきません。もっとずっと偉い立場の人です。(2) resignは、自動詞と他動詞があります。多くは、自動詞です。ということは、前置詞(from)を伴い、「~から離れる」。他動詞は、もうちょっと、放り投げる色合いが強い。これはTOEIC対策というより英検や大学受験対策に近い例文になりますが、He resigned himself to his fate. 彼は自らの運命に身を任せた。resign だれちゃん to なになに、身を任せる。テレサ・テンの歌にもありましたね。まあ、English as a second languageのわれわれには、素では使いようのないフレーズです。新聞や英日翻訳では、見かけたことがあります。(3) 職位(なになに長、なになにトップ)の前は、しばしば不定冠詞a/anは、省略されます。つまり、a chief executiveとならない。ならなくて自然です。ほかにはmayor (市長)なんかが代表例。お気づきになりましたか。気づいた方は、そのセンスをどうぞ大切になさってください。

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103. The financial audit of Soft Peach Software ------- completed on Wednesday by a certified accounting firm.
(A) to be
(B) having been
(C) was
(D) were

なぜこれが出題されるのかというくらいのサービス問題。(C)。やわももソフトウェア社は水曜日に認定会計事務所による会計監査が完了した。

ビジネスっぽい形容詞に惑わされてはだめです。むしろみなさんは社会人ですから、訳されてみれば、なんだそんなことかという意味内容でしょう。(1) completeは他動詞です。auditが目的語です。それがもの=auditが主語になった形で、必然的に受け身になります。つまり、A firm completed the audit. これが、The audit was completed by a firm. と変形する。中2で習う文法事項です。あといろいろくっついているのは形容や修飾です。(2) certified これは覚えておいて損はないでしょう。「認定を受けた」。監査法人はむやみやたらとどこでもいいわけではない。当局ややわももソフト社が認定する、そのお墨付きを得た、という意味です。(3) その前にあるaが実はそれなりに興味深くて、certifiedな監査法人は複数あり、名を明かす必要まではないのでまあ、そのうちの1社によって、というくらいの含みです。

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104. The organizers of the trip reminded participants to ------- at the steps of the city hall at 2:00 P.M.
(A) see
(B) combine
(C) meet
(D) go

これ、少しだけ難しいかも。難しくはないか。迷うかもしれません。(C)。旅行の事務局は参加者に、待ち合わせは市役所の階段のところで午後2時と念を押した。

seeの「会う」には複数人が集まって相まみえるという意味はありません。基本は、(I) see you againのように、私があなたと会う←見る→顔を合わせる、というような意味の広がりです。

(1) 対して、meetは自動詞で、集まる、落ち合うという意味があります。(2) remindは、思い出させるというより、「釘を刺す」「念を押す」という訳語で掴んでおいたほうがいいでしょう。ビジネスでもよく使われるreminder、リマインダーは、念押しです。A gentle reminder. こうすると、いちおうね、うざがらないでね、って感じが出ます。(3) city hallは市役所です。hallの語感から、市庁舎かな。(4) organizerというとカタカナ語では何やら格好よさそうですが、ただの事務局です。まとめ訳、仕切り役のことです。(4) participants、stepsの意味がすっと出てこない人は、高校1年の英語からやりなおしてください。step (足の踏み場)が複数集まったものだから階段です。participantsは、アクセントの位置も重要、頻出です。

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105. ------- is no better season than winter to begin training at Silver’s Fitness Center.
(A) When
(B) It
(C) There
(D) As it

センター試験レベルの頻出構文です。(C)。シルバーズ・フィットネス・センターでトレーニングを始めるなら冬が一番。

(1) There is no better なになに、で、なになにに優るものはない、なになにが一番、という意味です。意味というか、決まり文句。「さあ冬(のいま)こそシルバーズ・フィットネス・センターでトレーニングを始めましょう」と、煽っているわけです。ちなみに、僕なら、trainingではなく、exerciseを使うかな。動詞trainは、躾ける、鍛える、ですから。(2) beginというのは、習慣化(~するようになる)を示唆しています。対してstartは、習慣化の含みは弱いと、僕は僕の先生から習いました。

*

長くなりました。今回は以上です。ではまた来週末にでも。ニーズがあるようでしたらまた解説記事を書きます。おやすみなさい。

広岡達朗その魅力をいま改めて

黄金頭さんの清川栄治のツイートに触発されて、YouTubeで「時の記憶 江夏の21球」を見ていたら、江夏が82年のプレーオフで「広岡さんに(バント作戦で)やられて」と半ばうれしそうに語っていたのに、さらに触発された。

YouTube広岡達朗で検索したら次が出てきた。

www.youtube.com

私は大学院に入った96年頃に、反時代的精神というかなりやばい病に冒されて、以来、日本のテレビをろくすっぽ見ていない。最後にちゃんと見たテレビドラマは「愛していると言ってくれ」である。95年の夏秋だった。豊川悦司の大きな手に励まされるように、私は卒業論文の準備と追い込みに、駒込にある東洋文庫に日参していた。

早朝から午前にかけて、気まぐれで応募した肉屋の解体バイトは長く続かず、もてあます時間を研究の時間にあて、本郷までの長くてゆるい下り坂を暑い中、走っていったことを思い出す。

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上掲の広岡の動画は2001年のもののようだ。海老沢泰久(2009年他界)は、当時まだ存命である。いくつかのことを思った。1978年から82年頃にかけて、当時30歳前後の海老沢泰久は精力的に、ジャイアンツや広岡に対して取材を行い、後のノンフィクション作家としての足場となる人間関係を築いている。その核となったひとりが広岡だった。 

みんなジャイアンツを愛していた (新潮文庫)

みんなジャイアンツを愛していた (新潮文庫)

 

うろ覚えで申し訳ないが、海老沢が広岡に取材を申し込み、初日の取材を終えたところで広岡から「これくらいの取材でわかったのか」と訊かれた、海老沢が「いえ…」とあいまいな返答をした。広岡は「そうだろう。ならば、明日も来なさい」と海老沢のことを促したという話を思い出した。

そこから、二人の付き合いが始まった。

この話は、もちろん、海老沢自身が、それとはわからないように、どこかに、そっと忍ばせるように記していた。広岡は、ジャイアンツを追われた後、35歳過ぎのころに、サンケイスポーツなどで自ら原稿を書き、デスクに書き直しを命じられたりしている。

*

それはさておき、若い海老沢の残したエピソードと広岡の人物像は、彼の取材から20年が経った上の動画と照らし合わせてみても、いささかも揺らいでいない。そんなことがある(も)のか…と、海老沢に、広岡に、彼らの記憶力と律儀さ、生真面目さに感嘆するとともに、私はいまさらのように、自分の青年期の危機を救ってくれた二人に厚く感謝した。

*

さて、時に、残月、光冷ややかに、そろそろ、動画を見ていただけただろうか。

私のエッセイは退屈に違いないが、広岡達朗という人物像の確かさは、確かである(変なにほんご)。ひとつ、海老沢の「監督」にも「みんなジャイアンツを愛していた」にも記されていない、挿話を発見したので、海老沢の守護霊を召喚して、私が書記訳を務めることにしたい。「終った」などは、海老沢の言葉遣いである。

*

 1983年の日本シリーズはこうしてライオンズの4勝3敗で終った。逆転に次ぐ逆転の、球史に残るシリーズと呼ばれるようになったのは、後の話である。当事者は戦いの充実と、終えた余韻でいっぱいだった。そのことは、広岡も例外ではなかった。

 その、最終戦から数日後、広岡はヘッドコーチの森昌彦を伴って、北里病院を見舞いに訪れた。少し前に、川上が命にかかわる病に倒れたようだという噂が入ってきていた。広岡は日本シリーズの始まる前にできれば訪れたかった。それを思いとどまっていたのだった。

 球界には、野球シーズン、特に日本シリーズが終えるまでは、野球以外のことでマスコミを騒がせるべきでないという不文律がある。広岡はルールを守ることが好きなタイプだった。川上に対する思いと、ルールを秤にかけたとき、彼は後者を選んだ。

「おかげさまで、日本一になることができました」

 病床の川上に、広岡はそういって森とともに頭を下げた。川上の反応は意外なものだった。

「馬鹿野郎。なぜ負けなかった。お前たちはこれから何度でも優勝できるだろう。藤田になぜ勝たせなかった」

 川上と藤田元司の間には、藤田が現役晩年のころから、家族ぐるみの親しい付き合いがあることはだれもが知ることだった。川上の返事に、広岡は内心あきれ、腹を立てた。が、反論はこらえた。ここで何かを口にすれば、現役時代の二の舞になってしまう。察した森が「はい」と頭をもう一段、深く下げた。川上は横を向いて答えなかった。

船橋海神/海老沢泰久「続 みんなジャイアンツを愛していた」所収

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もちろん、私は川上哲治が嫌いなのだけれども、川上には川上の流儀でしか応えられないこともある。手抜きをして、自分の記事から引こう。

82年、広岡がライオンズを日本一に導いた年の正力松太郎賞選考委員の筆頭格であった川上哲治は、次のように述べたと海老沢泰久は伝えています。

「初めから、この賞に値する働きをした野球人は広岡ただ一人だと私は思っていた」

「許し合わないままでいる」ことについて - illegal function call in 1980s

元の出典は、前掲「みんなジャイアンツを愛していた」の、どこか

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そして、みなさん、先刻ご存知かもしれませんが、彼、広岡達朗の名誉のために私はひとこと蛇足を加えておきます。広岡は、(思いの外)律儀で、(思いの外)情に厚い、繊細で、おもしろい人物です。上掲の動画でも、83年の日本シリーズで初っ端2連敗したあとで、若いチームが帰りのバスでお通夜のような雰囲気になったのを察し、これは何とかせねばと、帰着したプリンスホテルでマイクを持って歌でも歌おうかとしている。

そんな、広岡のリーダーシップにいち早く目をつけた根本陸夫は、「広岡には私心がない。これと決めたら、若手であろうと何であろうと、とことん付き合って、これでもかというくらいに、基本を教え込む」というようなことを話していました。

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あやうく忘れるところでした。「セニョール・パ」が、そうした、裏面史に埋もれがちな、「おもろい」広岡達朗の人間像を伝えてくれています。おもしろいです。

 

蛍の季節

山形、尾花沢、牛房野(ごぼうの)を流れる牛房野川の水温が25度を超えるころ、蛍の鑑賞時期が始まります。間もなくです。

www.city.obanazawa.yamagata.jp

yamagatakanko.com

本当はあまり教えたくないのですが、みなさん私のTOEIC記事にはいらっしゃるでしょうけれど、この記事にはいらっしゃるまいと思って書いています。id:yutoma233さんが、先般、宇都宮動物園に、とどこかでおっしゃっていたので、それよりもずっといいところがありまっせというつもりで切り札を切ることにしました。

会津からなら、喜多方あるいは福島まで出て、13号で置賜寒河江までくれば、あともうひと走りです。

*

125ccのバイク(タイカブのようなもの)を持っていたころ、平成1桁年代の私なら、次の土日、6/22-23は、簡易テントを荷台につけて、実家の宇都宮から下道で5時間か6時間をかけて、大石田を目指していたと思います。ひところは、役場に電話して水温を確かめて、金曜17:30の退勤とともにバイクを走らせていました。夜半に着き、蛍の場所とはずっと離れたところにテントを設営して、翌日土曜夕方の鑑賞に備えます。

ここは本当にすばらしいので、風情のわかる人以外は来ないでほしいです。よよん君に、教えてあげたかった。

苦手を克服するには(広岡達朗曰く)

海老沢泰久「みんなジャイアンツを愛していた」の中で、広岡達朗が次のように話すシーンがある。

(で、あらかじめ予防線を張るつもりで告白するが、これは、私が仕事や学習で何かを身につけようとするときの、20年来の基本姿勢になっている。同時に、私にとってこれは単に方法論の話というだけでなく、ここから浮かび上がる海老沢泰久や、彼の描く広岡達朗のものの感じ方が、それくらい好きだという、そのことに触れたいがために書いたことである)。

広岡は基本ということについて、たとえばノックに対する考え方をつぎのように語っている。

「選手を右に左に走らせて面白がっているコーチがいるが、あのやり方は派手に見えたり、いかにもコーチが仕事をしているように見えるだけで、本当にいいノックとはいえない。ノックの目的というのは、選手からゴロに対する恐怖感をとりのぞくことなんですから、基本は正面に強いゴロを打ってやることなんです。ゴロに対する恐怖感がなくなって、その選手にちゃんとしたフットワークがあれば、左右のゴロはいくらでもとれるようになるんです」

 海老沢泰久広岡達朗の790日」(『みんなジャイアンツを愛していた』)P.90-91 

ノックの目的というのは、選手からゴロに対する恐怖感をとりのぞくこと」。まったくその通りで、私はいまでも英語が、日本語のコミュニケーションというのが、怖くて仕方がありません。みなさん、好き勝手をおっしゃる。

たかが、ビジネスとはいえないような、作業、ルーチンのレベルで、多くの方が技をかけてくる。実にめんどうくさい。そうした思いを、20年以上、してきました(論理の不徹底、漏洩、逸脱、加えて保身)。しかも、発せられる日本語は、特に敬語と助詞において、破綻が目につく。発した当人は平然としていらっしゃる。

広岡達朗がどうだったか知りませんが、想像するに、似たような、野球界、巨人軍における何かから、1本の線を取り出した、その苦闘のエッセンスという感じがして、私はこの一節が大好きです。ずっと、折に触れて口ずさんでいます。

*

引用を続けます。

「それが分らずに左右に走らせるノックばかり打っていると、選手は最後にはつらくなるもんだから、ノックに対してやまをかけるようになる。ヤマをかけてゴロをとるのを覚えさせたって、選手のためには何の役にも立たないんです」

前掲書P.91

*

英語の、日本語の、上達法についても、同様のことがいえると思います。私も1,000人以上の生徒さんを見てきましたが、英語を苦手とする子、あるいは大人は、「正面の強いゴロ」を苦手にしていることが多い。正面の強いゴロとは、あくまでも受験界隈においてということですが、私の見たところ、語彙(覚えている単語数)と、発話/音読の絶対量です。分からない、口に出すのが怖いんです。知らないし、自信がないから。

そこに、「なになに学習法」というのは、広岡達朗が指摘するように、何の役にも立たないと、そういうことになるわけです。

したがって、私は、英語が苦手だといって学習塾や予備校に入ってくる生徒さんに、絶対に妥協しない。1日10でも20でも30でも、英単語を覚えさせ、音読させて、保護者の方にサインをもらって、提出させます。

半年くらい徹底して、それでもだめな生徒さんも、たまにいます。これは仕方がない。現代日本の学校制度、教育制度に、こと英語に関しては向いていない。別の道を進むことを選択肢としてお伝えします。

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そもそも、だれもがグローバル資本主義に対し、最適化を図る必要はないわけです。平たくいえば、目黒駅からAmazonのオフィスへと向かう朝の葬列に並ぶのは、全国でも限られた人です。違う生き方(苦しいかもしれないけれど)をする余地は、まだあります。

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基本の話でしたね。広岡達朗の至った慧眼は、とりわけ、基本とは何か、コーチをするとはどういうことかという観点で、多くの示唆を読者に与えてくれます。「正面への強いゴロは、怖い」。このことを認める勇気、そして、だからどうすればいいかを、1960年代にすでに考え抜いていた広岡達朗の着眼は、いまなお、幅広い視座を提供してくれると思います。

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以上、このひとつ前の記事の背景でした。

今からでは間に合わないTOEIC対策(今回は読解のさわりと心構えのみ) - illegal function call in 1980s