illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

山際淳司の話がなかなかできなくてすみません。

とあるところにマーケット・レポートを日英で書き始めました。それとは別に(系列プロダクションで)コラムを書くことも決まり、先程入稿を済ませました。

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マーケット・レポートは尊い仕事です。世界の先端に触れている気がする。内外の世代の下の有能な人たちと縁もできた。コラムも、ビジネス寄りですが、自分の新しい一面が掘り起こされるようで、楽しい。

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でもね、忘れちゃいけないと思うんですよね。

僕の日本語は、百姓(造園/果樹園)の倅で土とともに叩かれ、磨いてきたものです。もっとはっきりいえば、僕はばあさんから聞かされた花や樹々の名前を、古層に眠らせて受験勉強や実学で覆ってしまった。そのことを後になって気づいて愕然とした。そのときに始まります。

掘り返しても掘り返しても間に合わない。

信じられますか? 花や樹木の名前が自然に口をついて出てこないんですよ。

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平成から昭和大正明治江戸…と遡り、一方では万葉から日本語の石を積み直していけば、大正生まれの祖母が恐慌や戦争を超えて受け継ぎ、つないできて、僕に語りかけてくれた「ものの名前」に、いつか触れることのできる日が来るのではないかと、あるいは来ないのではないかと、怯えているのが僕です。

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だから、どこか一箇所くらいは、現代人が忘れた、気づく人が気づけば引っかかり、立ち止まってくれるような形容詞、副詞、その他を僕は毎回、依頼された原稿に盛り込むことを心がけています。数値分析や時局放談なんて、だれだってできます。そんなものに、意味なんてないです。

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このたび災害に遭われた、北海道や関西のサイレントマジョリティの方々に、もし私の部下が(それとは気づかずに)がさつな言葉遣いをしたとき、私が不意にやんわりと、声の調子を変えることがあります。そして勘のいい彼らの何人かは、私の悲しみがどこの何に由来するのか、特定できなくても、その土台には、関東ローム層のようなものがあるらしいと、気づきはじめています。

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もちろん知らないふりをしますが、つくづく、いい部下に恵まれたと思うのは、そのようなときです。そして、そのようなことをさせてしまった自分に腹を立てます。

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では、災害復旧対策本部に戻ります。

和泉式部の天才性について(2度目か?)

惜しまるる涙にかげはとまらなむ心も知らず秋はゆくとも

 天才ですね。おそるべし。

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  • 惜しま:マ行四段活用動詞「惜しむ」未然形。残念です。つらいです。
  • るる:自発助動詞「る」連体形。自然に(意識や気持よりも先に)涙が。
  • 涙:名詞
  • に:理由/原因/場所の格助詞
  • かげ:名詞。光。姿。おもかげ
  • は:係助詞。季節や気持ち「は」流れていってしまいますが、貴方の姿「は」(とどまる)。「は」の用法は本来このようなもの(他のことはさておき、これこれ「は」)ですね。
  • とまら:ラ行四段活用動詞「とまる」未然形。とどまる
  • なむ:希望願望の助詞。(せめて)~であってほしい
  • 心:名詞
  • も:係助詞。おそらく、強意
  • 知ら:ラ行四段活用動詞「知る」未然形
  • ず:打ち消し助動詞「ず」終止形
  • 秋:名詞。「飽きる。心が離れる」との掛詞ですね。いうまでもないですね。(現代人には殊更にいう必要がある。なぜなんだ)
  • は:前掲
  • ゆく:カ行四段活用動詞「ゆく」終止形。過ぎていく。
  • と:係助詞。変化、あるいは変化の結果、などと一般には語釈されます
  • も:係助詞。詠嘆

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訳します。

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惜別の涙が自然にこぼれてきます。

せめて面影は流れずに涙の中にとどまってくれたなら。

(それなのに)私の思いも知らずに「秋も終わりだね」だなんて。

 

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惜しまるる涙にかげはとまらなむ心も知らず秋はゆくとも

この歌は好きとか嫌いとか別れとか貴方とかひとこともいっていないですね。

それでもどう読んでも好きとか嫌いとか別れとか貴方への歌なんですね。

たとえば、オフコースの「さよなら」冒頭の「もう終わりだね」にこの伝統は受け継がれてゆくわけです。

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それだけじゃないんです。この歌は和泉式部がある方から頼まれて詠んだ代作です。ある方というか、かなり最低なんですが(依頼者側が)。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

和泉式部の才能と技術は、そういう現世的関係を上回ってしまいます。

まあ、本気で詠んだのではないと思います。さらっと、まあ、おそらく、余技です。けれど、余技であり、わがことではないからこそかえって、彼女の才能は伸び伸びと発揮された。そういうことが、文芸にはあるのだと思います。

連載予告 山際淳司「たった一人のオリンピック」文藝春秋版 精読

すみません、もうだめだ。忙しくて手が回っていない。このまま東京五輪を迎えるわけにはいかない。ストリーキングの前におれにはやることがある。

ということで、

dk4130523.hatenablog.com

これ、いま改めて、ちゃんとやります。角川文庫版と違うところ、全部読みます。読み終わるとあら不思議、読者の皆様のお手元には(謎のPDFの)(お察しください)。明日8/24夜からです。

では、行商に出て参ります。

くーちゃん (´;ω;`)

この記載は痛烈だ。

討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争 - Wikipedia

この討論会の眼目は、全共闘らが、死の原理である行動を〈現在の一瞬〉に賭けきれず、既成左翼の思考ルーティンである〈未来〉へと繋げざるをえない時間意識の呪縛から抜け切れていないところにあり[2][13]、政治と文学の関係についても既成左翼的な〈政策的批判〉を踏襲するだけで、天皇制に集約される文化の母胎(非合理で非論理な民族的心性)の所在に無自覚であり、日本の歴史と伝統(時間的連続性)に関わる〈日本人の深層意識に根ざした革命理念〉を真に把握できず、それを拒否する姿勢で自ら〈革命理念の日本的定着を弱めてゐる〉ことを三島から指摘されている点にある[2][13]。

このときの保坂は冴えている。

保阪正康は、全共闘らが三島の論理の本質を最後まで全く把握できなかったし[5]、ある時には、「空間には時間もなければ関係もない」などと言い、三島の術中にはまって、解放区そのものが3分間でも1週間でも続こうが本質的に価値の差はないと答えさせられてしまったり、天皇という名辞が個々の共同幻想の果てにあると、誘いをかけられた時にも、三島のいう天皇の実体を彼らが把握できずに、的外れな質問に終わっていることを指摘している[5]。

三島がさすがだw と思うのは例えば次である。

ベストセラーとなった刊行本の印税は、全共闘と三島で折半され、三島はこのお金で、楯の会会員の夏服(純白の上下)を誂えた[12]。

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この討論の白眉は、三島が昭和先帝から銀時計を賜った、その式典で帝が木像の如く3時間、微動だにしなかった、「そりゃもう立派だったさ」と(通じないのをおそらく分かっていて)述懐したことにあると僕は思う。

www.youtube.com

三島のテーゼは鮮やかだ。(1) 天皇は堕落しきったブルジョアではない。堕落しきったブルジョアであれば革命はもっと容易だ。その難しさの中で右も左も戦っているんじゃないか。(2) 個人的な思い出の中の昭和天皇は立派だった(全共闘諸君にとっての昭和天皇は立派ではないのか? ―とは、三島は口にしない)。

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いまだに、51対49で、三島が勝っていると僕は思う。その、力量差を、三島は(多少の怯えはあったに違いないが)敵陣に乗り込み、いったん乗り込んでからは余裕綽々で場を支配している。その違いはどこに、何に由来するか?

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それは冒頭にも記した、行動を現在の一瞬とその帰結たる死に賭ける、覚悟の在り様にある。実はこのことには右も左も関係ない。そのことは、全共闘が掲げたテーマのひとつ「われわれはやはり敵対しなければならぬ」に見られる、時間意識の温(ぬる)さにも見てとれる。

自らにいいきかせる決意では遅い。遅すぎるのである。

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三島は、この討論で、暴漢に刺されるなら刺されるでいいとまで腹をくくって来ていた。討論が始まった時点で三島の余裕は明らかであり、逆にいえば、三島はこの会場での死に場を失って、一層の徒労を帯びた。

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私は、英霊のために、左翼をも代表して、2020東京五輪開会式でストリーキングを敢行しなければならない。平成帝のお目を汚すのである。その日のために、日々を重ね、生を永らえる、そうした思いが日に日に強まりつつある。くーちゃん (´;ω;`)

万葉2188の技法と多義性について

非常に、その、すばらしいお歌と思いましたので。

黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ

品詞分解しましょう。

  • 黄葉(もみちば):名詞。紅葉。「もみち」(清音)は奈良です。濁音「もみぢ」になるのは概ね平安から。黄はいうまでもなく中古は高貴な色でした。
  • の:格助詞
  • にほひ:ハ行四段活用動詞「にほふ」連用中止。もしくは名詞。ニはおそらく丹です。赤い土の色。赤く色が映えること。香りの意味に転じるのは後世。
  • は:係助詞。Aは、Bは、というように他を想定した限定的な話題を提示します。この歌の肝です。後述します。
  • 繁し:ク活用形容詞「繁し」終止形。時空間的に、次々に生起して、互いにすきまのないことです。草木や葉が密生していること。
  • しかれども:接続詞。如く・あれ・ども。そうではあるが。直前の「繁し」のシ音を引きます。こういう、接続詞で受ける音引きはなかなか見たことがない。
  • 妻梨:名詞。梨。実際にそういう梨の種類はなかったでしょう。つま(配偶者。男性女性どちらから見た場合も「つま」です)が無い、に掛けます。
  • の:格助詞
  • 木:名詞
  • を:格助詞
  • 手折り:ラ行四段活用動詞「手折る」連用形
  • かざさ:サ行四段活用動詞「かざす」未然形。未然形であるのはア音であることと、直後の助動詞「む」が受けることによる。髪にさす(簪す)と、小手にかざす(現代語のかざし見る、に近い)が、やわらかく掛かっています。
  • む:直接/主体意志の助動詞「む」終止形

その、非常によいですね。

(ややくどい訳)(遠く見れば)紅葉の葉の赤黄が色あざやかに映えています。(私はでも)(この手元の)梨の白い花の咲く小枝を手折ってかざす(髪に差し、遠くの紅葉をかざし見る)つもりです。

なぜ、ここまでことばを補わなければならないのか遺憾極まりないのですが、そのことを補って余りある、いい歌です。

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理由の一つは、難しい言葉遣いがひとつもないことです。

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二つ目は、「黄葉のにほひは」の「は」にあります。

「は」は、主語を呼ぶ(主格に使われる)のではありません。実際、現代国文法でも「は」は係助詞に分類されます。(橋本進吉さんの仕事かな? 知らんw)現代国文法の格助詞は「が/の/を/に/へ/と/より/から/や/で」です。「は」の本質は、比較、対比と限定と話題提起です。(他はxxxだけれど、あるいはどうか知らないけど)私は、みたいなときに使う。あるいは、「Aは」の後に、「Bは」が来ることを前提する。

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確かに、紅葉は紅葉で赤黄に映えている。だけれど(一方)私は、梨の白を選ぶ。この歌の見事さは、下の句の梨の白を詠むことが先に念頭にあって、しれっと、自然な形で紅葉を持ち出すところにあります。そのときに「は」を用いることを忘れない。この人は手練れですよ。普通は逆なんだ。《私「は」白。でも、それを見下ろすかのように、紅葉が色あざやかに映えて/生えています》。

でも、この順だと菅家ですね。壮麗だけれど平板になってしまう。

それをこの歌は、嫌味にならず、初めから本能的に計算をして、予定通りに「私」にフォーカスを引く。しかも、「白」とはどこにも記していない。

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年配の方が白髪を嘆いた、洒落でしょうかね(歌い手が男性か女性かは問いません)。もしそうだとすると、黄葉の含みも違ってくる。

遠く、あちらで艶やかに着飾っている若いお方のうらやましいこと。私は年老いて、それを眺めるだけ、白髪の、妻梨の花です。

だとしたら、我が身を花になぞらえるのは女性です。若い高貴な男性に叶わぬ恋をしている。ただ、「而れども」はこれは漢文から入った言葉遣いです。そこを採れば男性の手による歌。それでもなお、男性が女性に仮託した線は捨てきれません。

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独り言か、誰かと一緒に紅葉を見に行った折の、それと分からないような思いの打ち明け(告白ではないのだ、諸君)、思いの丈が胸を衝いて出てきたか。その点も、解釈欲をそそります。私「は」(他の国文学者のこと「は」知らんが)、これは同伴者がいて、なおかつ、言葉には出さないで胸の内でつぶやいたものと受け取りたい。

(紅葉がきれいですね。私は気づけば白髪になってしまいました。手元の梨の花で控えめに飾ることにしましょう。)

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以上に縷々述べてきたような野暮を、しかし、この歌は語っていません。「花鳥風月」「もの」に寄せた心映えの、ほんのわずかな揺れ、響き、記さなければ忘れてしまうような動き、変容、ただそれだけを平明に、色だけが心に残るように歌っている。しかも諄いようですが、韻を枕のようにして、「しかれども」なんていう扱いの難しい接続詞で受けています。人麻呂の仕業か(笑)。

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まだ紅葉には早いですが、いい歌と思いましたので、紹介することにしました。

黙っていて、すぐれた文章が上がってくる

黙っていて、すぐれた文章が上がってくる。

すばらしい。おれはずっと読者でいたい。

tanpopotanpopo.hatenablog.com

ハレとケというのがあって、たんぽぽさんは晴れがましい場なのにハレに自分を持っていけないんですね。ほんとに、すばらしい。昨今、ろくに晴れがましくないことでも晴れがましいように書く界隈があるでしょう? ないんですってば。人生の九分九厘(99%の意味じゃ)はケで、できている。ごくまれに、ハレを迎える。すると、中身は変われないから、せめて外身の力を借りようとする。これが「晴れ着」です。

そのハレの場でたんぽぽさんは何をなさったか。

表彰は、選考委員長の作家、太田治子さんによって行われました。

太田治子さんが私に「本当に困ったお父様ね」等と仰ったのですが、私はすっかり舞い上がっていてよく覚えていないのです。

賞状を受け取った後、握手の手を差し出され、私は畏れ多くもその手に触れました。

柔らかな、温かい手。

こうだよね。うんうんと、思って、読み進める。

この中の半分は太宰の血が流れているのだと思うと、私はそれがどんなに羨ましいか、私がどれほど太宰に傾倒してきたか語りたくなるのですが、それは絶対にしてはならない事でした。

はっはっは。そうだと思う。抑制するのか。するわなあ。

このエッセイの白眉。圧巻。

僭越にも程がありますが、太田治子さんと私は少し似ているような気がしました。

お会い出来た事、あの手の柔らかさを一生の宝物として、生きて行こうと思います。

ご病気のことはあるかも知れないけれど、まだ、もうちょっと、あといくつか書けるさ。しかし、はてなの外に、いよいよたんぽぽさんの才能が知れてしまったか。知れても、作風や文体が変わる方とはもちろん思わない。そうじゃないところから、何かが迸り、にじみ出てくる。

前にも書いたかも知れないが、たんぽぽさんの、ふいにタイムラインを上がって、いつの間にか目の前に置かれている断章を読むと、「私小説だってわるくない」(むしろ私小説こそ書きもの本来の味)という気がしてきます。

おめでとうございます、というより真っ先に浮かんだのは「いいなあ」というフレーズでした。

行商研修をしています

この間、行商研修を実地で担当しています。面白い。

リーダー職とプロモーション職の2人1組になって、指定の地域を決められた時間でオリエンテーリング風に回り、名刺交換をし、商材を買っていただく。現金取引。僕は現場の総責任者でもあり、プレーイングマネジャーとしてリーダーの役に就くこともあり、自分でプロモーション芸をすることもあり、出発前のトーク研修にも。移動は電車と徒歩です。

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大切なことって何だと思います? 研修を仕掛けた側の大きな意図は何か。

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売上金額や数量あるいは名刺交換の枚数? コミュニケーション? 地場/地域経済を肌感覚で知ること? それはもちろん大切ですが、ちゃう。

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若いメンバーに、自分が「種まき型」か「刈り取り型」かを身をもって味わってもらうことです。刈り取り型は、ぐいぐい行くわけです。多少強引な手を使っても、数へのコミットに、本能的な喜びを感じる。リーダーがこれだと、プロモさんに注文を入れるわけ。「何でおれがxxxにアタックしている間にyyyに行かないんだよ!」とか。

種まき型は、行かない。刈り取り型が10の数を上げる間、種まき型は6でもよしとする。その代わり、場も、プロモさんのことも、荒らさない。「まあいいよ。ドンマイ」とか何とかだまくらかして、「週中(なか)は体力温存。週末に6を8にしよう。トータルxか月の長丁場だし」なんて、のらりくらり。

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刈り取り型が入った翌日に、その地域を担当すると、けっこう大変。前日報告の数字はいいんだけど、また、荒れ地に種を撒いて、土を温め直さないといけない。種まき型が入った翌日は、何となく、お客様側もwelcomeな雰囲気になっている。刈り取り型は、トップ賞をとることが多い。種まき型は、「万年2番手」なんていわれて。

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「おれも二十歳三十路のころはxxxさんのさらに上を行くモーレツ刈り取り型だったなあ」なんて、いってみたりして。

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Excelでちょっと計算してみれば分かるけど、自社の売り子(プロモさん)がその地域を寡占していることを前提に、期間トータルで見れば「種まき型」の存在は必須。他社との併存だと、自社で温めて他社が刈り取るなんて(実際にはそんな愚にはならないけれど)リスクも考えないといけない。

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そうしたっくれ(栃木弁)、「刈り取り型」と「種まき型」のN日、N日からN+1日にかけての最適配置を考えるという線が、マネージャーに出てくる。報われないが地味な仕事を積み重ねている人の処遇はどうするつもりなんだぜ? 現場総責任者としての僕は、彼らのその部分の頭の使い方が知りたい。

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いま、わりと全国広範囲にやっている。で、おもしろいように、優劣が表れてくる。うち(僕の見てるところ)は連日ほぼトップだけどね。「どうしてそんなにうまくいくんですか」って訊かれたりもする。甘い。教えるわけない。「『戦国策』読んだら」って返したら、読むか? 読まないだろう。

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(わい、営業地域の昼間、研修に入る前の人の流れを観察して、そこらの姉ちゃん兄ちゃんに「どう? お盆終わった感ある? 客足、平常時のなんぼくらい?」「そうっすねー」みたいな会話重ねてるんだぜ)

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ちなみに、行商は鬱が緩和されるので、よい文明といわざるを得ない。