また例によって旬を過ぎた話をする。
私はこういうのは好みではない(三島由紀夫)。そこで少し考察をする。正確にいえばかねてより考えていて誰にもしゃべらないまま腹を切ろうと思っていたことを披露する。よって終わったらやっぱり腹を切るのである。
大きく2点。引用はすべて新美南吉/黒井健「ごんぎつね」から。
ごんぎつねの時代背景
- これは、私がまだ小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
注を付けよう。
- これは、私[新美南吉:1913-1943]がまだ小さいとき[1918-20ごろ?]に、村[南吉記念館のある愛知県半田市岩滑(やなべ)西町:旧知多郡岩滑村]の茂平というおじいさん[南吉と2世代60歳差として茂平:1853?-1923?]からきいたお話です。
原文に戻る。
- むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです。その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。
注を付けよう。
- むかし[茂吉が幼心(1861?)に聞かされた、その少し前の事件として、1851ごろ?]は、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです[中山元若に連なる:中山勝時 - Wikipediaを「南吉」で検索されたい][また、中山家は現代まで続いている]。
私の南吉覚書 (小栗大造): 2005|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
すばらしい。地誌は特定が済んでいることがわかる。
- 以上の大まかな見取り図に立って、兵十は1816-81?くらいか(母親に先立たれた独身者。そう長生きはすまい。「事件」のあった1851年当時35歳くらい?)。
- きつねの寿命を平均4年とすると、それより先に撃たれたわけだし、ひとりぼっちの兵十にシンパシーを寄せるのは青年期特有の傾向とみて、ごん(1848?-1851)。かわいそうに。
当時の村人の倫理観を普通に想像するに、きつねを撃ったところで自殺はすまい。一般的なきつねなら、喰った、もありえる。だが、兵十はそんなことはしなかったはずだ。手厚く供養し、晩年は半ば出家したような状態で過ごしたと俺は見る。
以下はイメージです。
年譜
- 1816:兵十、生まれる
- 1848:ごん、生まれる
- 1851:兵十のおっかあ(1798?-)、病気になり、亡くなる(享年53)。「事件」が起きる
- 1852:喪が明けた兵十、稲荷塚を建立
- 1853:茂平、生まれる
- 1861:茂平、「事件」の話を聞く
- 1881:兵十、亡くなる(享年65)
- 1913:南吉、生まれる
- 1918:茂平、ごんの物語を南吉に聞かせる(実際には、中山家当主元若の妻しゑであろうといわれる)
- 1923:茂平、亡くなる(享年70)
- 1930:南吉、「ごんぎつね」原作を執筆(当時17歳!)
- 1932:『赤い鳥』に掲載
- 1943:南吉、亡くなる(享年30)。9月、童話集『花のき村と盗人たち』に収録、刊行
- 1947:黒井健、生まれる
- 1956:初めて学校教科書に採択される
- 1973:俺
- 1979:俺、読む。泣く
- 1980:よよん君、生まれる(11月5日)
- 1986:黒井健版「ごんぎつね」刊行
- 2002:よよん君、亡くなる(享年22)
- 2003:俺、滋賀に通う
- 2017:俺、書く
世界のごんぎつね的内的構造
絵本に寄せられた黒井健の挿絵は、1枚を除いてすべて見開き片面だ。1枚だけ、両面になっている。撃たれたシーンではない。
ごんが、いそいそと、栗やまつたけを拾うシーン。
- つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
ここが、僕は(も)作中でいちばん好きでね。世界がずっと、このままであればいいのにと思う。黒井健も、おそらくそのことを早いうちからわかっていたんだ。
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もうちょっと書いたんだけど、これ以上のことは野暮になるから、消した(笑)。
#この記事は「国語の自由研究なう」に使っていいよ。