illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

御礼 / いつか光の差す日のために

8/31 京都お墓参り行ってきます2 - illegal function call in 1980s

行ってきました。私は超絶高学歴のプロの意識高い系ライターですので、いま神戸空港で帰りの新幹線待ち、立ち食いそばをすすりながらブログを書いています。

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六地蔵駅

wattoさんが六地蔵駅から徒歩数分のところで、受けて、持ちこたえようとして、胸と頭を抱えた衝撃それ自体は僕にはわかりません。

僕自身、これは大変につらいものがあるなという感じを受けました。同時に、申し訳ないようですが、僕は幸か不幸か、アニメーション方面の文化資本、同時代的蓄積、感性、恩恵、その他がほとんどありません。これは例の事件が起きた直後から自覚的に捉えてきたことです。

しかし(いま思い切り話を端折りました)、僕は一方で日本全体から発せられる「悲しみの総体」「総量」のようなものに、それなりにやられて来もしました。

nekohanahime on Twitter: "おれ自身はファンではない通りすがりだから、京アニ喪失の悲しみを語る資格がない。/ けれど昨日から、伝わってくる世界の悲しみの総量みたいなものにやられている。/ 桶谷秀昭と司馬遼太郎が終戦時を想起して似たような書簡を交わしていたことを思い出す。/ そして慄然としている。"

正直にいえば、僕の悲しみは六地蔵よりも猫寺、よよん君のお墓のほうがまさった。しかしそれは比較の問題にしたいのではなく、人にはその人が固有に感受する対象と悲しみの性質があるということを、自分の責任として、正確に限定的にお伝えする必要があると思ったからです。

まどろっこしいのは嫌いです。ずばり書きます。僕は僕の悲しみを、wattoさんはwattoさんの悲しみを、これからも、折に触れて京都に持ち寄るというのはどうでしょうか。そう、わるくない方法のように思えます。

バスの中でお話ししました、よよん君は進路に迷い、大学を中退して、ゲームかアニメの学校に入ることを考え、長岡京にあるゲームの制作会社が運営する学校に入りなおしました。かれは1978年の生まれです。

よよん君はゲームと同じくらい、マンガやアニメが大好きでした。滋賀大津に暮らすかれの世界線に、六地蔵があったとしてもまったく不思議ではなかったと思います。

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僕は長い墓参り人生において、初めて、今日は悲しみよりも、自分の中で笑顔がまさったことを感じました。来てよかったと思いました。一人だったら、あるいは、先日足をお運びいただいた同行、そしてその後の代参がなければ、僕は変わらず悲しみにやられていただろう、それは確かなことに思えます。

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wattoさんの今日のひとつひとつの話はどれも楽しかったです。僕は、よよん君がかれの友だちとの間に、そのような日々のあったことを改めて確信しました。

僕には、そのような光の差す話に、再構成する使徒としての使命がある。kash06さんのドラゴンズ愛と日曜礼拝のことが話題に出たとき、僕は棄教徒ですが、マルクスも信じませんが、それらとは別に、別の地層に足を下ろして、話を語り継ぐ責任があります。

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いつか、wattoさんが、あてもなくビジネスホテルを泊まり歩く暮らしがいかに味気ないものかと嘆いていらっしゃいました。僕はあの告白は、wattoさんはご謙遜されるかもしれないけれど、ここにこの人の文学のふるさと坂口安吾)があるのだとみています。

そう、ご恵投いただいた(誤用。いちど使ってみたかった)矢川冬さんの「もう、沈黙はしない」、神戸空港でぱらぱらと読みました。第一感、すばらしい本です。ゆっくり、腰を据えて、悲しみに負けることなく、受け止めながら読んでいきたいと思います。

そして、一連の図書館をめぐる旅、そしてその先に、wattoさんはおそらく光を見ていらっしゃる。

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突然ごめんなさい。残念なお知らせです。89年にベルリンの壁が崩れました。それが合図でした。おそらく、共産主義の世の中はいつまで待っても来ないでしょう。しかし一方で、マルクス主義的なものの見方を母胎とした、射程がいまだにあることは疑いえないように思います。

そして、そのような、社会を構造的、複眼的に眺めつつ、悲しみの重さを両の掌に溜め、持ちこたえ、旅路を歩く営みは、やはり必要なのだろうと僕は思います。これをいうと、「だれかがしなければならない」だとか「あえてそれを自分が選ぶ必要があるのか」「ほかにすることがあるのではないか」だとかの問題を呼び寄せてしまいがちです。

明白に、間違いですね。

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ひとりひとりが、そのようにして、旅路を歩く。

ネットを見つめすぎることなく、知り合った人と会って、実際に、話してみる。いちどではぎこちなくても、二度、三度と会って、話に耳を傾ける。

僕たちが六地蔵を歩いていたとき、おそらく、同じような目的をもって歩いたり、引き返したり、路地の先を覗き込んだりしている若者、巡礼者が何人かいるのを見ました。

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本当に、ありがとうございました。何より、wattoさんが前回よりも快活に、好調に、お話しくださったことがうれしかったです。よよん君、喜んでいると思います。

また、できましたら10月3日にお会いしましょう。

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神戸空港から

2019年8月31日

船橋海神、自称ニヒリスト、夏の宿題