illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

いつかまた、カップ焼きそばを

取材を終え、茅ヶ崎の自宅にもどるとカップ焼きそばの作り方についてエッセイを書いていただきたいのだが、というFAXが届いていた。

カップ焼きそばか、とぼくは思った。

昔のことを、思い出したからである。

「背番号94」が、そこにはいた。下総農業の黒田真治。といっても、いまでは知っている人のほうが少ないだろう。1975年のドラフトで6位指名を受けた、ジャイアンツの元投手である。指名したのは、ミスター。長嶋茂雄さんだ。

黒田真治 - Wikipedia

いい投手だった。高校時代までは、という前提がついてしまうのだが、しかし、いまでも出身地の千葉県佐原市では、クロダといえば、かつての快速球投手を思い起こす人は少なくない。70年代の終わり、彼はうだつのあがらない二軍の合宿所の夏を、壁に貼ったアイドルのピンアップと、3食では足りない分を補う間食として、そのころピンク・レディーと共にお茶の間に知れ渡りはじめた「U・F・O」によって、乗り切ろうとしていた。

ドラフト同期には、篠塚、中畑、山本(功児)らがいた。ここであえて踏み込んで記せば、スターダムへの道をかけ上っていったかれらだって、状況は似たようなものだったはずだ。かれらにせよ、初めから、成功が約束されていたわけではない。見えないところでダンベルを上げ、走り込みを、打ち込みを、そして「ゼッコウチョー」をアピールしたわけである。

その中で、結果をいえば、クロダはミスター・ジャイアンツの前で自らの能力を示すことができなかった。

そこには、勝者と敗者をわける紙一重の、当事者にしか知りえない「何か」があるのだろう。

いまこうして記していて、ぼくなりに、答えのようなもの、がないわけではない。おそらく、投手としての能力のせいではなく、黒田の人としての優しさ、弱さのようなもの、生きるスタンスが災いした――少なくともぼくは、そう捉えてみたいほうだ。黒田は、勝つことに、シャイすぎたのである。そしてそんな彼のことを、当時のぼくは文章として形に残しておきたいと思った。

「僕みたいなタイプが間違えて、プロの世界に紛れ込むことだって、あるのかも知れません」

うつむきがちに話す、打撃投手クロダの表情が、ぼくには忘れられない。

いい香りが、漂ってきた。

いつかチャンスを捉えて、「背番号94」、クロダ君と話をしてみたいと思っている。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

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