illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

紳士的な獣の話

 ジャイアンツの元エースで監督としてもすぐれた成績を残した藤田元司といえば、細身のシルエットと、いかにも慶応という紳士的で柔和な表情と笑顔で知られる。

 そして彼のそうした表情はときに勝負師にはふさわしくない甘さと映ることもある。

 試合は大田のホームランで2対1と勝ち越していたライオンズが、9回表に中畑の3塁打をあびて3対2と逆転された。ライオンズはこのシリーズすでに2度も逆転負けしていたので、これで勝負はきまったと思った。わたくしの周囲にいるライオンズ・ファンのすべてがあきらめの溜め息をついたような手ひどい一撃であった。ジャイアンツの応援団は総立ちになって中畑に拍手を送っている。ダッグ・アウトに目をやると、藤田監督をはじめ王助監督・牧野コーチも踊りあがって、顔をくしゃくしゃにして喜んでいた。それを見た瞬間、ふいに何かへんな感じがきた。指揮官までが、まだ試合は終ってもいないのに緊張の紐をゆるめていいのか、と思った。もっとも、それはあとから附けた説明で、その場ではただ漠然とした変な感じであった。

 広岡の方は、例のように7分3分でグラウンドに目をやりながら、別にたじろいだ様子も見せず、立ったまま森コーチに何かささやいている。

 加藤守雄による「解説」(海老沢泰久『みんなジャイアンツを愛していた』文春文庫P.239-240)

 1983年の秋の日本シリーズだ。逆転ありドラマありのこのシリーズは昭和50年代屈指の名シリーズの1つといわれ、中でも第6戦、延長10回裏に金森がリリーフに立った江川からレフト越えのサヨナラ安打を放ったゲームは野球の醍醐味を凝縮したものだった。30年も前の話だが、中畑の3塁打とともに両軍ベンチの様子が映しだされた様子を覚えている人はそこそこいるのではないかと思う。


1983日本シリーズ 西武vs巨人(第6戦~7戦)&広岡監督談 - YouTube

 小学生の僕は「広岡カントクって冷徹で怖い人だな」くらいのイメージをもった記憶がある。ジャイアンツとライオンズのどちらのファンでもなかったが、あの当時の日本シリーズは、小学校の道徳や学級会や音楽の授業をつぶして先生がテレビをつけてくれるようなお祭りだったのでとてもよく覚えている。


1983 藤田元司 広岡達郎 インタビュー - YouTube

 それにしても藤田監督というのは柔らかい眼差しを崩さない人だ。オブラートの奥底に野球に対する厳しい姿勢を包み込んでいるのだが、広岡ファンの海老沢さんの著作から入った僕は藤田監督のそのような二枚腰の強さを長いあいだ知らずにいた。

 藤田と王と牧野は、野球は苦しみながらやるものではない、楽しくやろうと選手たちを教育していた。

 「楽しくやって勝てれば、それほどいいことはない」

 と、広岡は思った。それがナンバーワンのチームとしての、誇りや、品格や、威厳を失ってしまったジャイアンツを立て直す新しい方針かと思って失望した。

 海老沢泰久広岡達朗の790日」(文春文庫『みんなジャイアンツを愛していた』P.119)

 「瞬間湯沸し器」の異名をもちながら、とくに人前の藤田監督は激しい感情をあからさまにすることがない。斎藤雅樹のことも褒めて自信をつけさせて伸ばしたという。

 「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。選手だって同じだ」と語り、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督であった。事実、監督時代は選手を責めるコメントをほとんど言わなかった。ただし第2次監督時代、ごく親しい知人には「一刻も早く、このチームの性根を叩き直さなければ(自分の後)苦労することになる」と語り、危機感をあらわにしていた。

ウィキペディア藤田元司」から「2度目の巨人監督就任」

 藤田は現役時代、ジャイアンツの屋台骨を1人で支えた時期があった。入団3年間で通算勝ち星119のうち6割強にあたる73勝をあげた。細身で恵まれた体つきであるとはいえず、それでも黙々と投げ続けた彼のことを人は「ガンジー」「悲運のエース」と呼んだ。監督就任時には解任された長島を傷つけたくない心ないファンからのとばっちりを受けた。新宮正春が興味深いことを書いている。

 引き合いに出して悪いが、こんどの日本シリーズ西本聖が「腕が折れたってかまわない。投げろ、といわれたらいつでも行きます」といったのとは、いささか趣きを異にする。

 藤田ならば、なにもいわずにただ微笑してマウンドに赴いたはずだ。

 新宮正春「藤田元司・惜別の秋」(文藝春秋『Number』1983年11月日本シリーズ緊急増刊号P.83)

 藤田は酷使がたたって肩に故障をかかえていた。藤田は親しくしていた記者の新宮にそのことをひとことも漏らさなかったという。新宮は続ける。

 藤田ならば、なにもいわずにただ微笑してマウンドに赴いたはずだ。かつて南海に4タテされた終盤、塁に出ると猛然と2盗した。ウインドブレーカーをなびかせたあのときの突進こそが藤田なのだ。

(同P.83)

 そういえば、この人はマウンドに立っていて味方がエラーしても、一度もその選手をなじるような態度を見せたことがなかった、と私は思ったものだ。

 カッカして野手を睨みつけ、そうすることによって自分自身を駆り立てていったり、あるいは精神的な平衡を失ってよけいに打たれてゆく投手たちは多いが、

 「いいんだ、いいんだ」

 と、むしろ優しいまなざしをエラーした相手に向けるようなタイプは、そうはいない。

 (同P.83)

 藤田の美学はジャイアンツの若い選手たちには奥が深すぎたのだろう。合理的な野球人生を歩もうとして藤田よりも1年おおい9年間の現役生活で135勝におわり、涙の記者会見でひんしゅくをかった饒舌で耳の大きい投手のことを思い出した。