illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

蜜柑が出回った

いい値段(手頃という意味)だったので一袋買い

家に持ち帰り1個剝いて食べた

おいしい

指先から柑橘のいい匂いがする

くーちゃんが「にゃーん」というので

左手

右手を

順に鼻先に差し伸べたら

くーちゃんは

酸っぱく切ない顔をした

 

おれはもう金輪際蜜柑を食わない

おれのくーちゃん

モンゴルの移動家屋「包」(パオ)

あれの中にねこが3人いる

もちろんおれが一毛たりとも手放すわけはなく

(また髪の話をしている…)

 

包に帰ると彼女たちは

「シャー」

「ふにゃふにゃ」

「とぅるるー」

1人の例外を除き

おれを優しく暖かく迎えてくれる

 

ねこよ

おれを信じてくれるか

 

神の話を

包まれた家屋の中で

夜な夜な

おれは(実は)繰り返していたい

 

つまりそれは

おれのくーちゃん

ねこの好む場所について

江國香織「デューク」の優れた意匠のひとつは、銀座にあるという小ぢんまりとした、初夏をモチーフにした古代インドの細密画を飾る画廊の話をはさんだことだろう。思春期に「デューク」を初めて読み、17歳で東京に出てきてからというもの、私は銀座の柳の陰を、路地を、ネオンの隙間を覗き込んでは、いつかはきっと目当ての画廊に巡り会えるはずだという願いを支えにして生きてきた。

*

今日、ようやく、阿豆らいちさんの個展に足を運ぶことができた。

www.secret-base.org

らいちさんと直接お目にかかるのは2日前の木曜日が初めてだった。銀座のライオンビルで、1Fの受付で店員さんに話しかけた私の声を耳聡く聞きつけ、

「その声は船橋さんでしょう」

と階段を降りてきて下さった。

そのオフ会のようなところでは、テーブルのお誕生席と対角線の向こう側のような位置関係になったこともあって、あまり密に言葉を交わしたのではなかった。だから今日の画廊訪問が実質的な差しでの初対面ということになる。

といいつつ、私は彼のツイキャスを全裸で待機し、彼は彼で私のツイキャスでのぼやきを全裸でふらっと聞きに来てくれるから、私たちはサウナの同じ水風呂に、相手とは知らず目隠しで浸かった間柄といえないこともない。

いつまでも長居のしたい画廊と作品展であった。

10月にしては暑い外気から守ってくれる、それは温調と照明の行き届いた白い長方形をした香箱の内側だった。ねこはそのようなほどよい場所を、ほとんど本能的に好む。

らいちさんは来客ひとりひとりに丁寧に、適度な距離感を保った挨拶を交わして巧みに物販に持ち込んでいった。その飄々とした強かさを、私はにまにましながら眺めた。

人の足が落ち着くと、脇に立てたギターを奏でてオリジナル曲を歌ってくれた。合間には、フリーランサーとしての柔らかくて強かな軌跡を、きらりんと放つ逸話を披露してくれたりもした。

そして四方には、絵が、ファンアートが、洒落た一言と共に配されていた。

雄弁に過ぎず、寡黙でもなく、内容や意味ではなく、洒脱が、技が、淡い色合いが確かな、見慣れたシルエットと共にあった。淡い色合いは、平安人が、私が、もっとも好ましく思う視覚のひとつである。

私は批評ということを思った。

小林秀雄を引くまでもなく、近代のこと文芸批評は作家や作品と批評家の間に断絶がある。モーツァルトと小林の間には、およそ150年の隔たりがある。さらに小林と小林を読む私たちの間には早半世紀以上が横たわっている。

モーツァルトは小林を知らないし、小林は私たちを知らない。そのような近代批評の基本条件は、例えば連歌を好んだ丸谷才一を悲しませた(連歌は、車座になって行う言の葉のファンアートに近い)。

*

らいちさんの個展と批評の関係は、違った。行く人行く人がその数時間後にはレビューを公開する。それをほとんどリアルタイムで作家であるらいちさんが読む。喜んで読み、別の来訪者と語り合う。来訪者はさらにレビューを記す。湧水が泉を満たすころに、銀座ライオンで宴が執り行われる。その熱が乾ききらない間に、おびき出されるようにして、私もまた、足を運んだわけだった。

それは実に不思議な、現に実在する、シンクロニシティだった。

明日になれば、夢は跡地となって、インドの細密画が飾られていたのか、近未来都市をランサー片手に生き抜く兵の虹色が飾られていたのか、柳通りを行く人には縁遠いものとなるに違いない。

「思い出は蒸気のようなものだ」と、かつてジョージ・フォアマンの言葉を引いて山際淳司は静かに語った。「その中にあって、消えないものを、僕は大切にしていきたいと思う」。

らいちさんの変わらぬご活躍を、東京湾のこちら側から祈りたい。

(2019年10月、船橋海神、全裸漢道)

18年の言い訳

私が2001年1月1日に入籍を、3月に結婚披露宴を強行したのは、もっぱら、母親のためでした。

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私は当時27歳で証券会社に専門職として勤め、データ分析と、Oracleのグローバル導入/展開のサポートを行っていました。収入はそこそこありました。

けれど、文学という病に主に精神面をやられ、先行きはほとんど不安しかなく、しかしそのことを知った上で大らかな気持ちで支えてくれるという妻を、長期的に「知らない者どうし二人で生きていく」実質への心もとなさを具体的な方策では解消しようとせぬままに、半ば騙し討ちのようにして入籍に持ち込みました。

披露宴では、式場の透明のドアに、酔った私がそれと気づかずに強かに額を打ち付け、係の方が慌てて取り外すという、その後の私の人生を象徴するかのような事故がありました。

*

その式を終え、そのままの出で立ちで、私たち、妻と私と父親の3人は、母親の入院する病院へと向かいました。

母は上半身を起こし、洋装に整え、薄い紅を差し、鬘をつけて私たちを笑顔で迎えてくれました。披露宴の前日までに私と父親で病院の先生と看護婦さん(当時はそのような呼称だったはずです)と、近所のメイクさんにお願いして、整えていただきました。

母はうれしそうでした。ハンカチで目頭を抑え、しきりに「これでもう大丈夫ね」と頷きました。「○○ちゃん(妻のこと)、△△(私)を頼むわね」「はい」。

*

病院からの帰りの車は父親が運転しました。母の入院先は宇都宮の旧市街の奥まったところにあります。帰りには駅前を通過する。その駅前に、祖母の入院する病院がありました。私はその足で祖母の入院先に車を付けるものかと思っており、また、そうせぬまでも、「どうする」と私に確認のひと呼吸が入るものと待ち構えていました。

車はそのまま黙って駅を越え、国道から幹線道路に入り、家路へと向かいました。私は聞こえるように舌打ちをし、家に着くなり前のドアを空けて父親に殴り掛かる絵を描きました(ちなみに、駅から家までの間に、枝野幸男の実家前を通過します)。

*

殴り合いが済んだ後、私は妻の手を引いて「これからバスで婆さんの病院に向かう。来てくれ」と伝えました。妻は泣いていました。父親は「着替えてくる」といって奥に消えたきりでした。歯を半分ほど欠いたはずです。私は鏡を見ないでも頬が不自然に膨れ、熱く冷たく、内出血していることがわかりました。

*

最小限の身支度を整え、小銭を持つと、私はひとりでバス停に向かいました。

バスに乗り、JR宇都宮駅で下りたその足で、公衆便所で顔を洗い、鼻血を拭い、近くのコンビニで買ったTシャツとYシャツに着替え、血のついたそれまでの衣類をくずかごに放り込むと、祖母の元へと向かいました。

母の病院に着いたのが15時半、それからひと悶着あって、祖母の病院に着いたときには19時を過ぎていたと思います。もう18年も前のことですが、帰りのバスを、掲示板で確かめた覚えがあります。

*

「婆さん、おれ、結婚したんだ」

「ごめんな」

「お袋、ばあさんより先には行きたくないっていってたけど、あの調子だと守れそうにない」

ばあさんは、背中の褥瘡に貼ったテープがこそばゆいのか、ときおり身を捩らせながら、僕の顔を興味深そうに眺め、頷き、にこにこと笑って、それでも、そのころには言葉はとうに失われていました。

「△△(私の名前)よ、あの状態の婆さんに、この姿を見せてどうするんだ。それくらいわかるだろう」

父親の立論はそこでした。しかし私はそうでないことを知っていました。事業に失敗した父親は祖母の介護を、薄皮を剥ぐように、削っていきました。見舞いの際に病院からそのことを知らされ、私が補うようになると、黙って追認し、そして、黙ったままでした。

*

私はひとこと「すまない」と手をついてほしかった。それが出来ずに、外からの理由を持っきて自分に言い聞かせようとするのが、私の父親の生き方、生き様だったと、いま振り返って冷静にそう思います。

その彼にとって婆さんは、わが身の至らなさを象徴、凝縮する、恥のようなもの、だったのではなかったでしょうか。

その気持ちはわからないでもありません。しかし、同時に、婿養子がそれをしたら、ただのたちの悪い、やどかり、乗っ取り、地上げではありませんか。

それに何より、まったく恥とは思わない、私がここにいます。

*

別に、事業が回転しなくなることは、いいのです。庭の柏の木の生えた一角を、公道が広がるから手放して現金に換えるなら、それでいいんです。弁護士を雇う金がなくて、土地境界の紛争に負け(てなけなしの金で丸め込まれ)たからって、そんなことは、どうだっていい。(むしろいってくれたなら、おれは好んで共闘する側に立つほうです。)

それをなぜ、そういわないのか。なぜそれらが、全共闘以降の新左翼の退潮に結びつく抽象の語りになるのか。それら左翼的な思潮とは別に、なぜ、いまその場その場で、ありったけの力で現実を見つめ、苦い砂を口に含み、万策を講じようとしないのか、なぜ、土壇場で膝を抱えて固まるだけなのか、なぜ……

*

dk4130523.hatenablog.com

婆さんは、逆でした。学校に上がれなかったときも、嫁いだときも、一切の「外からの理由」を持ってこなかった。「私はこの場で、与えられたように、こう生きる」以外の原理、思惟は、根っから、彼女の芯にはなかったのだろうと思います。

とかく、思索や抽象に流れて現実から逃げがちな私が、踏みとどまらなければいけない、踏みとどまった先に、よりよい生き方があるのだということを、私は確かめたくて、青年期の初期に足繁く、祖母の元へと通いました。

拙い自己分析に過ぎませんが、おそらく、そういうことだったのだろうと思います。

*

ちなみにいえば、別れた妻は、私のこのような感受性の形、あり方を、ある意味で危惧していました。何か、私の成長をかなり深い根のところで阻害しかねない、危険因子のように見ていた節があります。

しかしそのことも、今となってはわかりません。

*

黄金頭さんの、亡くなったお祖母様はおそらく私の祖母とほぼ同年代です。

祖母の火葬式 - 関内関外日記

三途の川を渡った先で、互いに孫の自慢をし合ってもらえたら。

そんな願いを込めて、滅多に書かない話を残しておくことにした次第です。いちど、お話がしてみたかった。

ご冥福をお祈り申し上げます。

断酒ネタでツイキャスします

断酒ネタでツイキャスします。

ほんとは今日第1回話そうと思ったのですがうまくいかなくて。

明日9/17はかてきょう。9/18(水)20:30頃からできるかな…

20代のいっときはガチの依存症でしたので(唐突な告白)、同じ辛さに苦しんでいる人がいたら、多少は力になれるかもしれません。

上田佳範のこと

この、増田を読んでいたら、

anond.hatelabo.jp

kash06さんの印象的なツイートがあって、触発されるような気分と形で、私的な記憶が呼び起こされてきた。私の記憶のことはブクマで済んだので、ここでは余談を。

後楽園〜東京ドームまで、何人かの人からその話を聞いた。たまたま松商学園から上田選手が日ハムに入った後の長野県民は、上田のチームとして観戦したと言っていた。愛工大名電の鈴木一朗を抑えた上田だ、との事。 - kash06のコメント / はてなブックマーク

上田佳範は、もちろんイチローを抑えたことで知られる。しかし、この男(と、あえて書く。私のほぼ同学年の誇りだ)には、人生の折々、あるいは全体が、何か祝福されているように思わせるところがある。あるいは、よき伝記作家がついているのかもしれない。

上田佳範 - Wikipedia

2箇所だけ引きたい。

漫画家の矢沢あいは、高校時代の上田に影響されて『うすべにの嵐』と続編の『空を仰ぐ花』を描いた。単行本に掲載されている矢沢本人の手書きメッセージ欄にも「松商学園の上田君に女学生のようにときめいてしまった」「ドラフトで上田君が日ハムに入団することが決まったとき、『今日から日ハムのファンになる!』と決めたが、ファンらしいことは何もしていない」と書いている。

矢沢あいに、これを書かせる上田。

松井秀喜は、メジャーリーガーとなった後の2007年に当時を振り返り、著書で「野球人生で初めて壁を感じて大きな影響を受けたのがこの上田さんとの対戦だった」と述べ、苦戦した経験を記している(1990年秋の北信越大会と3年時の第73回選手権大会で対戦している)

松井秀喜に、これを述懐させる上田なのである。

一流の野球選手は、記憶と記録の両方か、どちらかが残るタイプの選手に大別されるという話がON以来、ささやかれた。むろん記録の王よりも、記憶の長島のほうが上だという含意がそこにはある。あるいは、80年代、90年代には、あった。

*

対して、上田は、人徳というか、キャプテンシーというか、何かがある。もちろん野球人としての輝き、確かさもある。甲子園のマウンドに立つ松商の上田は、それくらいすごかった。残された記録は問題ではない。

そういえば、上宮の元木大介もすごかったのだが、彼は野球よりも遊びのほうを好んだので、何も残らなかった。

dk4130523.hatenablog.com

さて、ぐだぐだになりかけてはいるものの、私は皆さんにひとつここで予言を披露したい。

松井秀喜は間違いなくジャイアンツの監督に就任する。これは予言ではない。既定路線という。

そのとき松井は、上田佳範を、ヘッドコーチか、内野守備総合コーチ待遇で呼ぶのではなかろうか。