illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

くーちゃん

よい子のみなさんにおすそ分けします。

f:id:cj3029412:20190327205159p:plain

一般には、ねこの体重は1歳時が標準とされるようです。くーちゃんは2歳すぎまで成長が続いた感じがあり、身体つきもしっかりして、まあ、僕のばあさんも、「よく食べさせる」ことを家是(そんな熟語があるのか知らんが)とし、僕たち孫を育ててくれたわけで、くーちゃんがしっかり歩いて梯子を上り下りしてくれたら、それで満足です。

毎朝、3時になると「にゃー」と長く鳴いて、毛布の中に入ってきてくれます。少しして満足したら、今度は短く「にゃ」と鳴いて出ていきます。くーちゃんはおそらく、僕が思うよりもはるかに、僕の言葉や気持ちを受け止めてくれている節があるのですが、下僕がねこ様に気持ちを尋ねたり、確かめたりすることは法律で禁じられています。

くーちゃん

くーちゃんが夕飯のあと

必ずおれの足元に来て

長い「にゃー」

そのあと短い「ふにゃっにゃっにゃ」

おれ「どうしたの、くーちゃん。遊んでほしいの」

 

くーちゃんの「ごちそうさま」

つい今しがたまでそれがわからなかった

 

それがわかった今

「ごちそうさま」以外にありえず

それまでの愛のない

素っ頓狂な声かけをしていた回数を数え上げ

そうして頭を抱えている

 

おれは夜通し今夜も反省文を書かなくてはならない

はあちゅう「仮想人生」の信じがたい下手さについて

「仮想人生」の冒頭、

寂しさは刺すように一瞬なのに、信じられないくらい体の奥深くまで到達してしまう。だから、その瞬間目を閉じ、ぐっと喉に力をいれてやり過ごす。けれど、これが時たまではなく毎晩のことなのだから、やっぱり飲み下しづらい日はあって、そんな日は適当な理由をつけてお酒でも飲みに出かけたい。

はあちゅう「仮想人生」P.7

失笑しか出てこない。

  • 「刺すように」の比喩の陳腐さ。
  • 「信じられないくらい」の程度表現の読み手への甘え。まるで伝わらないよ。
  • 到達して「しまう」の無意味な強意の放置。
  • 「だから」の論理の飛躍。

寂しいのはだれでも当たり前、常態で、それをそう書く意味があるのだろうか。これを、平然と金をとって読んでもらう/読ませる/押し付ける無神経さは、何に由来するのか。

  • 「やっぱり」の意味不明。それはお前はあちゅうの独自感性にすぎない。
  • 「そんな日」の意味不明。固有のどんな日かまるで伝わってこない。毎日でしょう。

この調子が、全編のっぺりのんべんだらりんと続くので、良識のある人はまともにレビューを加えようとしない。はあちゅうの小説には、対価相応に伴うはずの、サービス精神が一切欠落した小説を読まされる、絶望が詰まっている。これで作家を名乗り、生きていられ、まだ書こうというのだから、その図太さには恐れ入るほかにない。

もう、ここまで書くので精一杯。3回か4回通しで読んで、わるいメンヘラ女の印象が増強されるのみ。書き直すか、金を返すか、どちらかだ。

くーちゃん

今日、うれしいことがあった。

持ち帰りの仕事をして、デスクでそのまま寝落ちしていた。気づいて、足元を見ると、くーちゃんがお気に入りのダンボール製ベッドで寝息を立てていた。おれはまた少し仕事を片付けて、くーちゃんの邪魔をしないようにそっとロフトに上がった。ロフトには簡易ベッドを備え付けてあって、春先のロフトは心地がいい。みーちゃんが、おれのあとをつけて、ロフトに上がってきた。おれはそのまましばし春眠を楽しんだ。

気づいて、枕元から目を落とすと、くーちゃんがお気に入りの(そこにも切らさず用意してある)ダンボール製ベッドで寝息を立てていた。「くーちゃん」とおれは静かにいった。くーちゃんは寝ている。くーちゃんの邪魔をしないようにおれはそっと階下のデスクに戻った。みーちゃんが、少ししておれのあとをついて甘えてきた。

おれは再びデスクで寝落ちをした。

気づいて、足元を見ると、くーちゃんがお気に入りのダンボール製ベッドで寝息を立てていた。

*

おれは気づいた。くーちゃんがおれのほうに歩み寄ってきてくれる回数と、おれが「くーちゃん」といって、くーちゃんの近くに足を運ぶ回数を比べたとき、その比率は6:1かそれ以下でおれのほうが少ない(くーちゃんとのことは、たいてい数を数えている)。くーちゃんは、おれがくーちゃんにそばにいてほしいと思うときは、ふにゃふにゃと足を運んできてくれる。「くーちゃん」とおれはくーちゃんの背や頬をなで、お世話に勤しむ。

*

初めて、ペットシッターさんの家でまだ生後1か月に満たないくーちゃんに出会ったときから、そうだった。いまもくーちゃんは、少し離れた「ほかほかの罠」の上で香箱を組み、おれを見守ってくれている。おれはだめな人間だ。くーちゃん。(´;ω;`)

@ha_chu

f:id:cj3029412:20190304185459p:plain

f:id:cj3029412:20190304182551p:plain

f:id:cj3029412:20190304125410p:plain

おれは原則としてPIECE OF MY WISHを認めない

私は原則としてPIECE OF MY WISHを認めない。前にやさぐれて書いた。

dk4130523.hatenablog.com

繰り返しては書かない。

*

私が今井美樹を初めて聞いたのはやはり198x年のCRT栃木放送「新井清の星空ベスト10」である。どれだけ星ベスに影響されたのかおれは。その楽曲は「野生の風」。映画「漂流教室」のエンディングテーマだったか、主題歌だったか、である。

www.youtube.com

今井美樹の瑞々しさが全開であった。星ベスのエンディングリクエストで、感度の高いリスナーのだれかがリクエストをした。それを聞いておれは胸を打たれた。それは個人的に84年の渡辺典子「少年ケニヤ」以来の衝撃であった。

www.youtube.com

サビの「口うつしにメルヘンください ほんとのこと教えてください」はテレビCMでも印象的に流れていたはずだ。ひとりくらいは記憶に残していることを願う。

*

渡辺典子は火の鳥について触れるべきこともあるが、こう記しておけば反時代精神の持ち主がどなたかコメントしてくださるだろう。渡辺典子は86年ごろに角川とヌードシーンの撮影を巡って対立し事務所を離れていく。そのぽっかり空いた(いや、すまない、13歳のおれにぽっかり空くような、はない)胸の隙間に収まったのが今井美樹大先生である。

*

今井美樹にはいいたいことが2つある。なんであんなのと結婚したのか。おれは別にその結ばれた形態を問おうではない。

自身では、代表曲は何だと思っているか。PIECE OF MY WISH今井美樹のポテンシャルからしたら堕落形態だ。おれは断じて認めない。認めるのは、認めたくないが(作詞があの野郎だから)、「彼女とTIP ON DUO」だ。

www.youtube.com

ちょうど、「ツルモク独身寮」のほぼ同時代だった。おれたち餃子シティ民は、東京に出ればこのような軽くてふわふわしてとらえどころのない、後味のいい、恋と、その失いとが出来るのだと、秋元、手前この豚野郎、いや、この曲は上田知華のセンスの手柄だ。これが、80年代後半、昭和最後の年の到達、軽やかさだったといま改めて思う。

資生堂リバイバルすればいいのに。

*

www.isehangroup.jp

伊勢半さんのこれ、コピーはともかく、おれらの感覚からすると80年代ぽい。うまくいえんのだが。

*

おれが、おれたちの今井美樹を奪い去った、群馬県高崎市出身の尖った野郎が、安中の新島学園ソフトボールを行っていたことを知ったのは、それから15年が過ぎ、三宅豊という男子ソフトボール界のエース、山際淳司がかつて「回れ、風車」に描いたいまや立志伝中の人物を取材したときのことであった。

dk4130523.hatenablog.com

*

斯様に、平成は間違いの多い時代であった。いや、間違いはむしろ少なかったと仰るのなら、どうぞ是非ともご指摘いただきたい。オリンピックを開催する意味は、少なくともおれには、ない。

*

追記:

www.youtube.com

これ、作詞、阿久悠なんだぜ。(´;ω;`)

1984年の"サカザキノスケコ"

僕が80年代ポップス(当時、同時代では必ずしもそう呼ばれてはいなかった)を聞き始めたのは、小学校5年生のときに「卒業生を送る会」の催し物としてクラスがオフコース「さよなら」と、あともう1曲何か歌おうということでアルフィー星空のディスタンス」が選ばれたのが契機である。

1984年。僕はかなりのことで個人史にフェイクや誤認を交えるが、おそらくこの記憶は正しい。「星空のディスタンス」は1984年1月21日の発売。送る会が3月だったろう。ヒットチャートを駆け上がってきたのが2月だ。音楽に目覚めた同級生が学級会で挙手して推薦した光景がいま、蘇る。

それからの僕はCRT栃木放送「新井清の星空ベストテン」の熱心なリスナーになった。アルフィーに感化されたのではない。進んだ同級生がどこから情報を得ているのか気になり、何となくラジオだろうという目星を立てて、週末夜になると1530Hzにダイヤルを合わせたのだった。創価学会と、立正佼成会のインナートリップのCMが印象に残る。また、この口がそういうことをいう。

*

別段、贔屓のアイドルがいたのではなかった。日曜夜19時だったか、文化放送ショウアップナイターからダイヤルを回して(合間にあれ、逆方向に回すと朝鮮語が聞こえてくることもあるのね)、栃木放送に合わせる。忘れたが、思いつくままに書けば、ワインレッドの心、ミス・ブランニュー・デイ、ピンクのモーツァルト、サザン・ウインド、前略、道の上より、サヨナラは8月のララバイ、それら今に名を刻む名曲の間にあって、星ベス(星空ベストテン)は、アルフィーが異様に、むちゃくちゃに強かった。AMよりも、FMのほうが音質が(何となく)いい。メタルテープに録音することを覚えていた僕は、FMにも手を伸ばし、ベスト10番組を聴き漁った。番組名は覚えていないが、FM東京で日曜の午後にあった記憶が漠然とある。

で、それらとは、星ベスのベスト10の構成が違うのである。

アルフィーが、落ちないんだ。落ちないんだよ。3曲同時ベスト10入りを、おれは何度か時期を違えてこの耳で聞いた。少し年は下るのだけれど。1987年。おれは中学生になっていた。「明星」を「平凡」を小遣いで買うようになり、河合その子のファンクラブに入り、YAMAHADX7を親に買ってもらい、弾き、渡辺美里のCDを買い、宇都宮文化会館にレベッカが来るというのでLONLY BUTTERFULYの予習をする。アルフィーは落ちない。

1987年3月11日。「サファイアの瞳」と「君が通り過ぎた後に」が発売される。2曲同時ランクインまではいい。不可解なのは、それまで、20位前後にまで順位を落としていた前年夏秋の「ROCKDOM -風に吹かれて-」が息を吹き返したことだ。そして、次のシングル、「白夜」が7月に発売されると、ランクを落としていたサファイアの瞳と君が通り過ぎた後にがじりじりとベスト10圏内近くにまで戻ってくる。それは、おれが他局で聞いていたベスト10の推移とは違った。

*

おれは焦った。おれは何としてもおニャン子クラブを押し上げなくてはならない。枠は10しかない。3をアルフィーが占める。おニャン子クラブも、彼女たちのシングルも、3は占めなくてはならない。残る2枠には、明菜ちゃんや聖子ちゃんや、南野陽子やジャニーズのために残しておく。

おれは猛烈にリクエストはがきを書いた。そのころすでに熱心なリスナーとして、星ベスのエンディングリクエストでも名前を呼ばれるくらいの認知はあったから、ベスト10番組には「戦う勢」がいることは薄々気づいていた。河合その子「青いスタスィオン」「再会のラビリンス」を押し上げたおれは、少し陰りの見えてきた「哀愁のカルナバル」と続く「JESSY」を上げたかった。だがいつもアルフィーに遮られた。ベスト10番組のリスナーだった方にはわかってもらえると思うが、ベスト10は先にイントロが流れ、先にリクエスターの名前が呼ばれたほうが負けなのである。3位でしばしばおれが自分の名前が河合その子とともにコールされるのを聞いた。泣いた。週に50枚はがきを書いたこともある。他局はアルフィーはとうに圏外に落ちている。この異常な局面を是正しなければならない。

*

「今週もまた、サカザキノスケコ。3週連続1位はアルフィーサファイアの瞳』」CRT栃木放送の新井清アナが読み上げる。

*

当時(1987)、聞いた話では、宇都宮大学に通う大学生だったとか。高校生、大学生になり(1990)、栃木放送にお邪魔した(当時はそのようなことが可能だった)。そのリスナー室にはおれのほかに何人かが訪ねてきていて、おそらく「この方がサカザキノスケコさん」という印象、直感を受けたことを覚えている。おれは栃木放送のロゴの入った置き時計とボールペンと、何かのパンフレットをもらって喜んで帰った。村下孝蔵がまだ健在だったころの話である。関係ないが。悲しい。

*

で、おれは今日気づいたのだ。リスナー名「坂崎の女(すけ)子」或いは「坂崎の助子」だろうと思っていた。どう考えても坂崎幸之助からとった「坂崎之助子(助幸)」だろう。彼女は週に100枚200枚の個人の組織票を動かしていた(つまり自分でリクエストはがきを書いていた)と、後にとある方面から聞いた。おれの及ぶところではない。このように、世界にはまだわからないこと、つまり発見と知の喜びが多く残されている。

www.youtube.com