illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

1984年の"サカザキノスケコ"

僕が80年代ポップス(当時、同時代では必ずしもそう呼ばれてはいなかった)を聞き始めたのは、小学校5年生のときに「卒業生を送る会」の催し物としてクラスがオフコース「さよなら」と、あともう1曲何か歌おうということでアルフィー星空のディスタンス」が選ばれたのが契機である。

1984年。僕はかなりのことで個人史にフェイクや誤認を交えるが、おそらくこの記憶は正しい。「星空のディスタンス」は1984年1月21日の発売。送る会が3月だったろう。ヒットチャートを駆け上がってきたのが2月だ。音楽に目覚めた同級生が学級会で挙手して推薦した光景がいま、蘇る。

それからの僕はCRT栃木放送「新井清の星空ベストテン」の熱心なリスナーになった。アルフィーに感化されたのではない。進んだ同級生がどこから情報を得ているのか気になり、何となくラジオだろうという目星を立てて、週末夜になると1530Hzにダイヤルを合わせたのだった。創価学会と、立正佼成会のインナートリップのCMが印象に残る。また、この口がそういうことをいう。

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別段、贔屓のアイドルがいたのではなかった。日曜夜19時だったか、文化放送ショウアップナイターからダイヤルを回して(合間にあれ、逆方向に回すと朝鮮語が聞こえてくることもあるのね)、栃木放送に合わせる。忘れたが、思いつくままに書けば、ワインレッドの心、ミス・ブランニュー・デイ、ピンクのモーツァルト、サザン・ウインド、前略、道の上より、サヨナラは8月のララバイ、それら今に名を刻む名曲の間にあって、星ベス(星空ベストテン)は、アルフィーが異様に、むちゃくちゃに強かった。AMよりも、FMのほうが音質が(何となく)いい。メタルテープに録音することを覚えていた僕は、FMにも手を伸ばし、ベスト10番組を聴き漁った。番組名は覚えていないが、FM東京で日曜の午後にあった記憶が漠然とある。

で、それらとは、星ベスのベスト10の構成が違うのである。

アルフィーが、落ちないんだ。落ちないんだよ。3曲同時ベスト10入りを、おれは何度か時期を違えてこの耳で聞いた。少し年は下るのだけれど。1987年。おれは中学生になっていた。「明星」を「平凡」を小遣いで買うようになり、河合その子のファンクラブに入り、YAMAHADX7を親に買ってもらい、弾き、渡辺美里のCDを買い、宇都宮文化会館にレベッカが来るというのでLONLY BUTTERFULYの予習をする。アルフィーは落ちない。

1987年3月11日。「サファイアの瞳」と「君が通り過ぎた後に」が発売される。2曲同時ランクインまではいい。不可解なのは、それまで、20位前後にまで順位を落としていた前年夏秋の「ROCKDOM -風に吹かれて-」が息を吹き返したことだ。そして、次のシングル、「白夜」が7月に発売されると、ランクを落としていたサファイアの瞳と君が通り過ぎた後にがじりじりとベスト10圏内近くにまで戻ってくる。それは、おれが他局で聞いていたベスト10の推移とは違った。

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おれは焦った。おれは何としてもおニャン子クラブを押し上げなくてはならない。枠は10しかない。3をアルフィーが占める。おニャン子クラブも、彼女たちのシングルも、3は占めなくてはならない。残る2枠には、明菜ちゃんや聖子ちゃんや、南野陽子やジャニーズのために残しておく。

おれは猛烈にリクエストはがきを書いた。そのころすでに熱心なリスナーとして、星ベスのエンディングリクエストでも名前を呼ばれるくらいの認知はあったから、ベスト10番組には「戦う勢」がいることは薄々気づいていた。河合その子「青いスタスィオン」「再会のラビリンス」を押し上げたおれは、少し陰りの見えてきた「哀愁のカルナバル」と続く「JESSY」を上げたかった。だがいつもアルフィーに遮られた。ベスト10番組のリスナーだった方にはわかってもらえると思うが、ベスト10は先にイントロが流れ、先にリクエスターの名前が呼ばれたほうが負けなのである。3位でしばしばおれが自分の名前が河合その子とともにコールされるのを聞いた。泣いた。週に50枚はがきを書いたこともある。他局はアルフィーはとうに圏外に落ちている。この異常な局面を是正しなければならない。

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「今週もまた、サカザキノスケコ。3週連続1位はアルフィーサファイアの瞳』」CRT栃木放送の新井清アナが読み上げる。

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当時(1987)、聞いた話では、宇都宮大学に通う大学生だったとか。高校生、大学生になり(1990)、栃木放送にお邪魔した(当時はそのようなことが可能だった)。そのリスナー室にはおれのほかに何人かが訪ねてきていて、おそらく「この方がサカザキノスケコさん」という印象、直感を受けたことを覚えている。おれは栃木放送のロゴの入った置き時計とボールペンと、何かのパンフレットをもらって喜んで帰った。村下孝蔵がまだ健在だったころの話である。関係ないが。悲しい。

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で、おれは今日気づいたのだ。リスナー名「坂崎の女(すけ)子」或いは「坂崎の助子」だろうと思っていた。どう考えても坂崎幸之助からとった「坂崎之助子(助幸)」だろう。彼女は週に100枚200枚の個人の組織票を動かしていた(つまり自分でリクエストはがきを書いていた)と、後にとある方面から聞いた。おれの及ぶところではない。このように、世界にはまだわからないこと、つまり発見と知の喜びが多く残されている。

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