illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

庭で火を燃す話

いえ、あの、日本語なんだけど、「火を燃す」って、いや、発音に漢字は乗らないから「ひをもす」「hi-wo-mosu」、火を燃す、畑の枝を火に焼べる(お、これで「くべる」なのか)って、うちのばあさんはよく言っていた。

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うちでも、庭の片隅で、銀紙に包んだ芋に火を入れていた。ちょうど、いまごろの季節から。落ちた庭木はかさばるので、庭の端に寄せる。頃合いの山ができたところで、庭でとれたさつまいもか、とうもろこし(時期的には、外れかな)を焼こうべか(北関東弁)という機運が高まってくる。

ちなみにいうと、庭の少し離れた一角では、筵(むしろ)が天日にさらされているのは、これは乾いた季節のわりと日常で、梅の実、りんごや大根や木瓜(ぼけ)の皮が、刻まれておひさまにあたり、ぱらぱらになる。梅はぱらぱらというよりさりさりって塩を吹いたりして。

信じられないかもしれないけど、学校に行って帰ってくる、そうすると、筵の上に、熱を受けて温かい、いい塩梅に水分の抜けた梅が、並んでいる。

それをつまむわけ。ランドセルを背負ったままで。

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それで、芋の話。

うちは、紙のごみって出したことがあまりない。ほとんど、庭はずれで燃しちゃう。その、ぱちぱちって音と、煙の匂いは、これはもうほとんど、都市近郊では得られないものだろう。乾いた日には、毎日、ばあさんが何かしら燃していた。じいさんはもともとがインテリの人で、戦争に行かされて、肺の病気をもらってくる。庭には、散歩に出るくらいで、畑仕事がまるで出来ない。それはいいんだけれども、肺の病気ってのは痰が出る。ときに血が混じることもある。

その紙も、庭先で燃すわけだ。

いまこうして書いていて不思議に思うのは、じいさんはとにかく潔癖な人だった。おれたち孫が国立療養所に見舞いに行く、それでわるい菌がついて、持ち帰ってはいけないってんで、手洗いうがいには厳しかった。

いま気づいた。

「会いたいんだけど、会いに来るな」

って感覚、これはおれはじいさんから受け継いだものだったのか。

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その、家に戻ってきたときに出る痰を拭いたちり紙を火に焼べる、いい塩梅に火が上がったところで、枝を寄せる、火が大きくなる、落ち着く、その、もとの炭をよけて、起こしなおした二度目の火種に、銀紙に包んださつまいもを埋めて、焼く。

いいのかね、あんなことして。まあ、結核ではなかったからね。

じいさんも、一度目の火種には「近寄ってはいけない」って、おれらを寄せなかった。

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そういうその、おおらかさ、中途半端な適当さ、ってのは、いまにして思うけれども、おれらはまるで平気だった。だいたい、ばあさんが徹底していて、じいさんが何で家でぶらぶらしているのか、何の病気だったのか「自分がシャットアウトする」って出で立ちで、おれらには一切、話さなかった。

ばあさんが大丈夫ってんだから、大丈夫なんだろう。

ちなみにいうけど、うちの本家は麹屋といって、酒も仕込んでた。じいさんが生きてた間も、じいさんも主に暮らすのは離れ(家屋)、味噌や漬物の仕込みも別の離れ、なんだかよくわからないけど、共存は出来ていた。おれなんて健康そのものだった。

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ともあれ、軍人の恩給だけでは食べていけない。それを、果樹園だとか、養鶏だとか、食用菊とか、いろんなことで、ばあさんは家財を守り切った。

「火を燃すけど、来るかい」

なんて、おれら孫たちに声をかけて、おれらはおれらで、それが何の合図か知っているから、わーっと、出ていく。リアカーで庭木を運ぶ手伝いをして、出来上がった、表に茶色の焦げめのついた銀紙をお盆に乗せて、熱い熱い言いながら、めくって、食べる。

片付けをして、縁側に戻ってきたばあさんの肩を叩くのが、おれの役目。当時、56とか、58とかだったと思う。「孫に肩を叩いてもらって、鉢が当たる。ありがとうね」

*

おれが、あれは叩かせてもらったんだなあと気づいたのは、ずいぶん経ってからのこと。「火を燃す」は、日本語表現としては破格なんだろうが、そんなわけで、ありだ。異論は認めない。