illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

声に耳を傾けること / 忘れないでいること

ずっと、書こう書こうと思って、たまに思い出しては頭の中を泳がせていたテーマ。

lechatdusamedi.hatenablog.com

好きなんです。この(手の)話。反核、反原発ではなくて。

少なく見積もって、id:LeChatduSamedi さんには、伝えたかったことはこの数倍はあったのではという気がします。で、何かを伝えたいと思うでしょ。書く。よれていくんだよね。一般論として。なぜかというと、伝えたいこと、書きたいことは面か立体なんです。全体像。ばばーんって、ある形がある。でも書き記していくロジックは線なんです。原理的に、間に合わないんですよ。開高健くらいになると速射砲を繰り出してどうにか辻褄を合わせる名人芸なんだけど、まあ普通常人には無理だわね。

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じゃ、どうするかっていうと、べき論、自分は出来た論に落とし込まれていきます。一例として、こんな具合ね。

toianna.hatenablog.com

んなアホな、と思う。みんな思わないのかね。まず、マネジメントは育成じゃない。マネジメントの要諦は人事評価です。たりめえだ。賞与やら翌年の年棒やらに直結する。そこをうまくバランスをとりながら部下をちょろまかし、自分も部下としてシニアマネジメントと面従腹背阿吽の呼吸。後輩を一人前にする(じつに恥ずかしいフレーズ)なんてどうだっていい。ほっときゃ勝手に育ったり育たなかったりする。いいんだよそれで。人なんざあ草だ草。お日様の下で好き勝手に光合成するんだ。それにさっきの話でいえば人は立体、言葉は点と線だぜ。間に合うわけない。間に合ったと思うのは勘違い。方法論にできたと思うのは、いってみれば目をつぶった暗闇の丁半ばくちだ。成り立つわけがない。翻って、成り立つ部分なんざ、わざわざアピールすることじゃあるまい。

一方の人事評価はそうはいかないじゃん。自分が評点をつける。そしてその評点に(たとえ建前でも)説明責任と恨みを負う。ずっと。住宅ローンの残る限り。これは重いぜ。なぜそのことを書かないのかトイアンナちゃん。はあん、さては、人さまから恨まれ足りてねえな。英吉利はだいぶ事情がちがうのか。

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ま、トイアンナのお嬢ちゃんには背中しまったらどうだ以外の関心がないので噺を戻す。で、まあ、俺は諦めたわけだ。話をすると噺になってぐだぐだになるんだよ。こんなふうに。話をするようで話を放り投げちゃってるところがある。代わりに、必殺技を編み出した。苦節25年。うむ。これだ(膝を打つ)。

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それは、語り部の声に耳を傾けることです。

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最近、増田日記でアニメと文学のマウンティングが盛んなようですが、俺はどっちかというと文学(んなもん、きょうびどこにもないんだけどね)の肩を持ちたい立場です。それは、文学(恥ずかしくてしぬ)は、書かれた言葉は、不思議なことにある程度の訓練を積むと、声が聞こえてくるようになるからです。俺の書いたことばは俺の声で再生されるでしょ。おかしいよね。俺、id:watto さんも、id:homare-temujin さんも、id:garadanikki さんも、そして、id:LeChatduSamedi さんも、肉声を聞いたことがない。でも、聞こえる気がする(ここ、点々たのむ)。芥川も漱石も太宰も開高も、蝉丸も持統天皇も、中島敦も、海老沢さんも山際さんも武者小路も三島も里見も志賀も、新明解の山田も、有吉佐和子幸田文も向田姉さんも君死に給うことなかれの人も、実際には聞いたことのない、その人固有の声が聞こえる。

おれだけか。

アニメはね、声優さんの声が物理現象として先に聞こえてきちゃう。これは、弱点ではないかのう。

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歴史をさかのぼって、どこまで真顔で、その人の声が聞きとれるか。あるいは、横軸に世界地図をとって、では、よその国のことばを話す人の肉声がすうっと身体に入ってくるか。歴史は、現代からの遡行線上でつながるのは、大塩平八郎(1793-1837)までかな。世界地図は、点だな。チャーチル、JJルソー、マルクスハンナアレントクーベルタン、アーヴィング、この辺まで。だめだ。ヘップバーンとグレゴリーペックの声なら聞こえる。

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森重昭さんのこれ。正確には、これじゃないオリジナルのほうだけど。

原爆で死んだ米兵秘史

原爆で死んだ米兵秘史

 

みんな、そろそろ忘れかけてないかにゃ。

まあ、ヒロシマに依るところの大きい、歴史書としては申し訳ないけれど郷土史研究の域を出ていない本です。アカデミックには正面からとりあげられる本ではないですたぶん。でも、すごいいい本ですよ。

それは、森さんが被爆者の声に、ひたすら耳を傾けているからです。原爆が落とされてから間もなく、相生橋東詰で米兵が虐待虐殺され手鎖のような恰好で亡くなっていたという。森さんは明言していないが「そんなはずはない」という内なる声を、時代の声を聞く。訪ねた先で、私はそんな光景は目にしていませんよという話を聞く。(やはり、思い込みではなかった。直観は正しかった。)

そう、控えめに自分の原風景に照らして、あの状況で、日本人も米国人もなかった。そしてそもそも、と森さんは思う。あの広島に、日本に、そもそも米兵がいたというのか。どこに、何人。そしてもしいたとすれば、彼らはどのようないきさつで日本にやってきて、あの戦争をどう潜りぬけて、いまどこで何をしているのか。それが、どうして記録に残っていないのか。森さんは、出来ることなら会って、話がしたいと思う。話を聞きたかったんです。

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何のために。

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目的なんてない。耳を傾けることが、聞いたことばを耳の奥底に、貝殻から聞こえてくる波の音のように大切にしまおうとすることが、すなわち、生涯の道のりだっていいはずなんです。森さんは、その道のりを、地道に、生涯をかけて、誠実に辿った方。

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(だって、お前ら隙あらばハウツー記事を書くじゃねえか。「口は1つ耳2つ。たまには話を控えめにして、他の人の話に耳を傾けてみませんか」って。でも自分では決してやらないんだぜ。ゆるさん。)

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(俺はぺらぺらぺらぺらしゃべってますけど、ほんとうのところでは、聞くだけの人であれたらと、いつも思っています。ねこちゃんのように、ね。)

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(追伸)

辻褄を合わせようとしない、手探りのまま、中空に浮かんだことばを選び掴もうとする、id:LeChatduSamedi さんの苦闘する姿が、この記事を書く原動力になりました。「大人になったら広島をまた訪ねてみたいです」と卒業文集に書いてお茶を濁してはみたものの、そのまま果しえない、果たす気もないそこの元中学生、id:鳥越俊太郎(象徴的氏名であって特定個人を指す意図は薄い)、何をか思はざる。