漱石は「こころ」、三島は「近代能楽集」(仮面の告白っていうと思った?)、筒井は「わたしのグランパ」(旅のラゴスっていうと思った?)です。
失礼ながら、いろんなところに星を付けまくったんだけどw これが読める喜びっていうのは、まさにインターネット日記時代のあれであり。wattoさんずいぶん踏み込んで書いていらっしゃる。というか、すぐれた文学作品と格闘すると、おのずとそこに運ばれていくのね。
「居ても立ってもいられぬほど感情を揺り動かされ」ることがあると想像できるのは、私自身にそういう経験があったからに他ならない。ではそれがいつだったかと言うと、いくつかあって、その一つが筒井「七瀬三部作」を読んだ時だった。私の高校時代が、シリーズの発表期間と重なったのだ。なんだか告白するのは気恥ずかしい気もするけど。
うんうん。僕の中高時代に、発表期間が重なった歴史的名作といえば、
もうねえ、開いた口がふさがらなかった。第1話。
これはねえ、漱石でいうところの「それから」なんですよ。うそうそw
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wattoさんの印象的な書きぶりに戻ります。
のちに大学で本格的に心理学を専攻する友人と話をする機会を得、岸田は完全なイロモノであり、本家のフロイトすら古典的な価値はさておき臨床的にはすでに時代遅れと聞かされて、興ざめを感じたりもした。岸田は、後日けっきょく精神科医による投薬治療を受けることになる。
これほどまでの容赦ない岸田秀批判を読むのは実に久しぶりです。
これに関しては、興味深く感じるのと同時に、がっかりしたような気分にも襲われた。大きなお世話だろうが「自力で決着つけられなかったんかい?」という気持ちと、あと、薬物療法という専門家以外にはアクセスの容易ではない手段が解決に用いられたことに対する疎外感、無力感である。
決着…うーん、決着…御意。御意でござる。そして、これはその、wattoさんの今回の記事の本題本線であるところの、「宗教的なもの」にも関わると思うのですけれど、つまりその(あー俺言っちゃうよw)岸田秀の唱える精神分析なる「宗教」、これは胡散臭い。あのー、語弊があるのだろうけれど、宮沢某の「雨ニモマケズ」手帳の最終頁になる「南無妙法蓮華経」の、怪しげなる荘厳。あれ、一体だからね。「サウイフモノニワタシハナリタイ 南無妙法蓮華経」だから。
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漱石は、拒絶したのよね。おそらく。彼は幼いころから浄土真宗や禅宗との関わりがあって、江戸趣味もある。理性とへそ曲がりでぎりぎりの綱渡りをしたのではなかったかのう。ちなみに、近代文学(者)を論じる際の「宗教」「趣味」軽視に明察を加えたのが丸谷才一/山崎正和のこれで、
大変参考になります。ただ、wattoさんの仰るように(こと漱石に関して僕の口から補えば)「明暗」に至る道には、確かに何かしらの「宗教」的な要素がある。そこは、今後の研究の待たれるところだと思います。三島と、筒井は…えーと、いがらしみきお先生に出陣願ったので、今回はこの辺でお開きとさせてくださいw
シリーズ化激しくキボンヌ @wtnb4950 \(^o^)/
— nekohanahime (@nekohanahime) 2017年12月25日
あ、1冊忘れていました。
いまでは入手困難かな? 岸田秀がけちょんけちょんに品よく叩かれています。誰に? 呉智英と絓秀実に。
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訂正。
「80年代の正体」でした。