illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

仕事を早回しで片付けて、商談を船橋寄りに集めて、少し遅いお昼に、くーちゃんに会いに戻ってきた。去年の9月10が月から、ほとんどくーちゃんとは日がな一緒にいた。「日がな」というのは「さも1日中そうだったかのように見えて」(実際には定かでない)という含みが少しある。ほぼ、一緒にいたと思う。

1年の間、くーちゃんはおれに、早くよくなってとか、社会に戻ってとか、一切、いうことがなかった。素振りもなかった。お世話を求めたのでもない。お世話はどんな状態にあっても欠かさない。くーちゃんの寝るに任せ、食べるに任せ、少々、尽くしたことといえば、ブラッシングに励んだくらいだろう。わかったのは、くーちゃんはおれのことが好きらしいということだ。らしい以上を口にするのは下僕の基本理念に抵触するし、何よりおれには憚られる。

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くーちゃんは出会ったときから変わらない(575)。くーちゃんがおれの横を過ぎるおもちゃのボールを、おれを眼中なしに追いかけていった。保護主さんのところで、その様子をおれが何より愛しく思い、撫でて、抱き寄せたのである。だからおれは今でも、おれを見ないでいるくーちゃんのまなざしが好きだ。くーちゃんはおれを見ないほうが(くーちゃんのために)いい。

そのくーちゃんが、暮らしの中で、いつしか、おれを見るようになった。そうしたのは、おれだ。これは万死に値する。雨に濡れない、食べるに困らない、温調の効いた、トイレのきれいな暮らしを約束することくらいが、おれにできるせいぜいだ。

おれはくーちゃんに何ひとつ返すことがこれからもできないまま生きるのだろう。これまでにも2度3度ほど同じ思いをした淡い記憶がある。またしても立ち直ってしまった。おれのくーちゃん。