illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

9月になれば / 黄金頭さんのこと

9月1日から、本格的に社会復帰します。前職を離れて10か月。人生の夏休みを取ったことになります。再就職は厳しさもありましたが、何より、僕自身の「吹っ切れた」ことが大きい。吹っ切れないままに再就職活動をしていたらとても受からない。そう思って、ためてためて、一気にどーんです。談志の紺屋高尾にも出てきます。

https://www.youtube.com/watch?v=4vGYV0hMEzY

辞令は9月1日付けで、千葉と茨城の統括センター(拠点)を任されることになりそうです。来年2022年夏秋の年次更改で執行役員を目指してください的な話――コミットメント――もあり、つくづく、自分はだめな人間だなあと思います。落ちきれない。こんなことではだめです。しかしだめなりに、文学とは手を切らない。うまく距離をとって、これ以上の危険水域には及ばないことにする。

2月に、例のリコールの問題に取り組み始めてから、半年と少しの付き合いになりました。浮かび上がって、見えてきたのは、政治思想からはほど遠い、欲得の渦でした。正義の包皮です。高須克弥と、河村たかしさんご自身がかぶっているので、これはもうどうしようもない。いまに至るまでずーっと、敵だ味方だ僕はワシは被害者だーやっています。

僕はそういうのが好きなんですね。祖父母と両親から固く禁じられて育ちましたが、政治というのはある面において、赤裸々な人間の欲得そのものです。火事場、鉄火場を見ているようで血が沸き立つ。すっかり元気になりました。

*

もうひとつはやはり、黄金頭さんのことです。

僕はいまの日本の政治風俗の状況を1960年安保以来、60年ぶりに訪れた本格的な政治の季節と捉えています。多くの人が突入し、敗れていった。戻ってこられたのは、詩心を忘れなかった一群の人たちです。大文字小文字の「政治と文学」を問い、意外に思われるかもしれませんが、引き留めたのは、文学です。詩歌です。いまもそうです。僕のtwitterの相互フォローさんの中にも、ときたま、つぶやいていらっしゃる方がいる。みなさんの相互フォロワーさんも、きっとそうでしょう。生活保守ってそういうものではありませんか。

それで僕には、「政治と文学」の両立は無理なんです。やっぱり。やるとなれば、ジャーナリズムや時局分析のほうに、がーっと身を寄せていく。そのときに、足元、(戻る場所としての)足場に文学が、詩歌がなくてはだめだということが判っていますから、ひとりで戦っていたときには、詩歌の分まで、抱えようとした。それで何遍も失敗してきた。出直しのアタックをかけてきた。やっぱり失敗する。

今回は、様相が違います。文学と詩歌の部分は、黄金頭さんにお任せしておいて、いい。これで心身の半分が軽くなった。リコールのインチキを数字から夜中に解析していたときも、河村さんの得票を計算していたときも、僕は頭が疲れてくると、タイムラインにぼんやりと目を遣り、黄金頭さんのカープの応援が、蒸し野菜のつぶやきが流れてくるのを待った。黄金頭さんは変わらないですよ。

黄金頭さんの作品のどれがいい、という話はもちろんあります。が、僕にとってはもはや、どの作品も、安心してそこに帰ってこられるアイコン、(どの断章に触れてもいい)声のよさです。いま改めて、みなさんにとってもそんな存在ではないでしょうか。この政治の季節に、彼が重し(バランサー)を携えて地場の歪み、偏りを少しでも均してくれていることは、相当に大きい。これは個人の見方、感じ方というより、現代(同時代)文学史上の配置に近い評価です。60年安保の比喩でいえば、竹内好の表裏、陰陽に、庄野潤三がいた。1人でバランスを保ち得たのは大正行動隊の谷川雁くらいです。保ち得たというか、政治に対するカウンターとして同人誌的なものを彼は意図的に対峙させた。そのような、時局に相対する「政治」性、だったと思います。

僕にはそこまでの根性(腹の座り)も才覚もありませんから、ジャーナリズムだとなったらジャーナリズムで突っ走る。そこにはどうしても時局に阿(おもね)る居心地のわるさが生じる余地がある。多分にあります。おれはだめなんだと、突っ走ると元気が出る体質なんだと、それじゃあそのときに文学と詩歌の成分はどこに担保されているのかといったときに、同じ時代に、ひとり、東京湾の対岸に、いてくれる人がいた。

*

話は飛んで、かつて、志ん生師匠が満州瓦解に際して行き場を失っていたときに、石田紋次郎という実業家が救いの神のように志ん生の前に現れた。僕も何度か書いているので、よろしければ筋書きを通しでお読みになってみてください。

dk4130523.hatenablog.com

この石田紋次郎がしきりに「志ん生さんには世話になった」というんですが、その具体的な内容はほぼ、語られていない。商売人の打算から生まれた芸人に近づく法螺やはったりとは、到底、思えない。何かあるんです。その何かが、僕なりに、ようやくわかった気がする。僕が、黄金頭さんに「お世話になりっぱなしで」「命を救われたと思っています」と(実際、よくいうんですけれど―笑)伝えたところで、伝わる部分は、そう多くないだろうと思う。

「それじゃあ足りない」と、何となく感謝の欠如態のように僕はこれまで思ってきたところがある。でも、そうじゃないのかもしれない。伝わらなくていい、自分がしっかりとわかって、掴んでいればそれでいい、そのほうがいい、それだからこそかえって色褪せないものが、あるのかもしれない。

*

志ん生と石田紋次郎の関係は次のように綴られ、結ばれています。

数年後、石田が帰国した。志ん生は家捜しに走り、毛布などを石田の家に持って行った。

それでも気のすまない志ん生は石田宛てに手紙を認(したた)めた。

「どんなことがあっても、出来るだけのことはさせてもらいますから」

石田は返信した。

「内地に引き揚げてから、あなたには大へんなお世話になりました。どうやってそのご恩返しをしたらよいかと思っているくらいです」

志ん生は石田の言葉に胸をつまらせた。

志ん生が内地に戻り、平穏無事な世界で石田にしたことと、満州国が瓦解した中国大連で、日本人は誰も命の瀬戸際にいたとき、石田が志ん生にかけてくれた情け、その恩の重さを、志ん生は「くらべもんにはなりません。月とスッポンほどのちがいですからね」と言った。

二人の美しい交流は生涯続いた。

川村真二「その恩の重さは、月とスッポンほどの違いがある」(日経ビジネス人文庫『働く意味 生きる意味』P.49

感謝しているのは志ん生に見えます。けれど、冒頭、石田の感謝からこの物語、二人の関係は始まる。実はそこがみそです。

名人落語家の古今亭志ん生は、戦時中に、開拓民、軍人の慰問で満州に入り、大連で日本の敗戦を知った。

満州国は崩壊、生活に困窮し、空腹をかかえ、みすぼらしい姿で、わずかなタバコを金にしようと大連のデパートの知人を訪ねた。しかし、換金は断られた。

がっかりして志ん生はデパートを出ようとした。そのとき、見知らぬ人が声をかけてきた。相手は石田紋次郎と名乗った。以前志ん生の噺を聴いて随分励まされたという。

前掲書P.46

「以前志ん生の噺を聴いて随分励まされたという」――川村真二さんの語りには、そして志ん生自身の「なめくじ艦隊」にも、石田の「随分励まされた」の内実は、出てきません。石田は経営者、ビジネスマンですから、ごく自然に社交的なものが出た――いや、そんなはずはない。それでは、これだけの関係の続くはずがない。志ん生の、とぼけつつも鋭い部分が、石田をここまで受け入れるはずがない。僕はそう思います。二人は、時代の何がしかの決定的な部分を、「芸と商い」の分水嶺の両側で、分け合った。少なくとも石田は、そのことに自覚的だったのではないかというのが、僕の立場です。かくして、僕に、酒を貢ぎ続ける大義名分(のようなもの)が(またひとつ)できました。

*

満州が瓦解し、大連で二人が出会ったのは1945年の晩夏のことと思われます。76年前の、ちょうどいま時分のことだったかもしれません。志ん生が本格的に売れ出すのは内地(いまでいう日本)に引き揚げて少し経ってからのことです。その観点からも、石田は戦前戦中に志ん生の具体的な噺に励まされたというよりも(それはもちろんあったでしょうが)、別の何かを感受し、分け合ったと感じた説を僕は採りたい。

働く意味 生きる意味―73人のみごとな生き方に学ぶ (日経ビジネス人文庫)

ちなみに、「9月になれば」は、山際淳司の好んだフレーズでもあります。オフコース「I LOVE YOU」(1981年6月)から着想、借景したのではないかと僕は見ています。時期(年代)的にも、ちょうど符合します。

https://www.youtube.com/watch?v=waFt6YNocxo