illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのじいさん

おれのじいさんは大正10年7月に足利に生まれて旧制足利から京都に進み、そこで学徒出陣を迎えた。戦後は払い下げ地に入植し、相前後して知り合ったばあさんと結婚し、養鶏と造園と果樹園で生計を立てた。けっこうなインテリで実際、頭も切れたので、戦後ほどなく頭角を現した。組合長になり、養鶏の成功は大臣表彰を受け、アメリカ行きの切符をもらったとも聞く。市政に出る話も持ち上がっていた。郡村から市に編入されたのが昭和29年。昭和30年代の話である。

けれどじいさんはそれらの上昇的なふるまいを自らに許さなかった。かえって戒めとした節がある。ばあさんにも、戦後の女性の地位向上の流れの中で、政治に関わってみてはという声が挙がっていた。高等尋常小学校卒で、聡明だったが昭和不況(1929-)のあおりを受けて学業は妹たちに譲った。妹たちは戦後、県や市の教育界の要職を務めた。

職業軍人、職業政治家、職業教育者(教師)には、なってはいけません。

というのが、孫の受けた教え、薫陶である。ばあさんの妹たちのころは女性が(当時は女といった)学を付けた先の頂点は東京女子師範(お茶の水女子大)という時代。おそらくばあさんも妹たちも他に進みたい道があったのだろう。すでに亡くなった妹(大叔母)ふたりもどこか型破りな、人としてのおおらかさを携えた方だった。

河村さんの(不)謝罪会見を見ていて、はっと気づいた、思い当たったことがある。じいさんはなぜ市政に出なかったのだろうか。昭和晩年には毎週のように市議や県議やその候補者や落選者たちが訪ねて意見を聞きにきていた。幼いながらにじいさんは偉いんだなと感じた。格が違った。若いころはもっとだったろう。出ていれば勝てていた可能性は低くない。

――じいさんは大陸か、転戦先で、人を殺めたのだろう。戦後を、贖罪と位置付けた。自分は公(政治)の場に出てはいけない人間だと思っていた(思い成していた)のではなかったか。

人に手をかけた話はちらっと噂に聞いたことがある。直接は話したことはない。訊いたところで孫に聞かせるような人ではなかった。当時は珍しいことでも――後に学んで知ったことではあるが――あるまい。傷痍軍人として高等遊民のような出で立ちを貫いた。戦争のことを話す代わりに、縁側で相好を崩し、よく将棋を指してくれた。

おれたち孫は斯くして守られたのである。それ以上のことはじいさんもばあさんも望まなかったのかもしれない。