おれのくーちゃんとおれとは、何というか相性がいいのだなと思うことがこのところたびたびある。
もちろんはなちゃんとの相性もいい。みーちゃんともいい。
しかし、何というか、それとはちょっと違う感じだ。くーちゃんは(くーちゃんがおれのことをどう思っているかはわからない)居心地がいいのでである。
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くーちゃんは絶妙の距離を保つ。だいたいにおいておれを少し離れた場所から見ている。ほとんどうるさいことはいわない。少し鳴くのはおれが出かけるのを察知したとき、お腹が空いたとき、くーこちゃんの椅子におれが必要以上に長居をしてキーボードをかちゃかちゃいわせているとき、それから、2年ほど前に、出張で1日半ほど家を空けたときである。
出張で空けたときは何というか、女の目でおれをロフトから見下げて、少しの不在(それは彼女、くーちゃんには十分な説明なしの放置と映ったろう)に、怒った風に鳴いた(ペットシッターさんを手厚く頼んでいたのに、である)。
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すねるくーちゃんと目を合わせたとき、不思議なことが起きた。何ともいえない愛おしさがこみ上げてきたのである。自分でも何をしゃべっているのかわからない。
くーちゃんはなかなか降りて来(き。古典的な栃木足利弁は「こ」ではなく「き」に活用する)ようとはしなかった。下僕にしっかり何かをいっておかなくてはと思っているように見えた。「そうはいっても」と何かを申し述べようとしていた父親の遠い姿が脳裏を過ぎった。それと同じことはすまいとおれは少しだけ足に力を込めた。
おれはロフトに上り、くーちゃんをぎゅっと抱いた。ごまかしも数パーセント入っていたかも知れない。そうしてひたすらに謝った。
くーちゃんの機嫌はしばらくの間、直らなかった。古語で「直す」とは、一時的に曲がったものをもとのまっすぐに戻して、その状態を持続させる行いや働きをいう。くーちゃんが直るまでおれは気が気でなく、やはり出張は、引いては日本の近代化は誤りだったと確信を新たにし、二度とすまいと固く誓った。
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そう、仲直りというが、おれはくーちゃんと仲違いをしたことがない。そもそも、ぶつかったりしない。くーちゃんは常に正しい。誤りや過ちがあるとすればおれのほうである。だからおれはくーちゃんに「ごめんねくーくーちゃん🐱💕」と謝ってばかりいる。
諸君、おれのしゃべりに飽きただろう。くーちゃんは例えばこんなふうにおれを見遣ってくれる。ばあさんがおれにとってくれた距離に近い。
おれは小さいころから、黙って見守られるのにからきし弱い。反対に、やいのやいのいわれたら決していうことを聞かない。