illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

白菜のひっぺがす冬/縁(へり)干せば

白菜のひっぺがす冬/縁(へり)干せば

  • はくさいの
  • ひっぺがす
  • ふゆ
  • へり
  • ほせば

名人は「かきつばた」でやるところを、僕は「はひふへほ」で。

ぷぺぷぺー\(^o^)/

くーちゃん😺💗(T_T)

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船橋駅前のイトーヨーカドー地下1階の外れに野菜市場が入っていて、そこにむかしでいう「おつとめ品」すなわち少々の傷を帯びた野菜がお値打ちで売られている一角がある。

白菜を買ってきた。値段は記さない。何でもかんでもむやみに値段を晒せばいいと思っているインターネットを私は好まない。

家に帰り、流しで水を当てながら、外側から1枚ずつ白菜の葉をはがしていく。どうも何かおかしいなと思い、そうこうしていると、ばあさん(1923生まれ)が、

これを上手にひっぺがすのよ。

とだれともなしに声にしていた情景が蘇ってきた。1980年のモスクワ五輪の頃だったように思う。

1枚ずつ、はがしていく。まず1枚めから、茶色い「ぬめり」がある。これに爪を立てて軽くこちら側に掻く。ぬめった部分がいい塩梅に(これもばあさんのことばだ)、へこみ、落ち、水で流される。

かなり大ぶりの白菜なので、これを4面にやらなくてはならない。それも外壁の1枚では済まない。部位によって、ぬめりの侵食度合いは異なる。といっても、頂点の薄い緑を茶色く染めている箇所を別にすれば、2枚めまでで済む。

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剥いた、根元あたりの付着している薄墨色の点々が、ポリフェノールなのか、売りに出される際に洗いきれなかった土埃なのかは、ほんの数秒、手を当てて確かめなくてはならない。イトーヨーカドーで売られている清潔な白菜は、ほぼ100%ポリフェノールと考えていいだろう。そんなものに興味はない。

包丁で根元を落とし、「でかい。太い。おちんぎん」と思い、「ばあさんすみません」「くーちゃんごめんなさい」と頭を下げ、1枚ずつめくっていく。洗い、軽く水を切る。ボウルに並べて、さらに水を落とす。手が冷たい。

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とてもすべてに包丁が回りきらないので、適当なところでボウルを持ってベランダに出て、網に並べて吊るす。今日は曇りだが明日は晴れだろう。船橋は今日(1/26)、外をこの冬で初めてのほんの少しだけ温かい風が吹いた。ばあさんはいっていた。

「明日の陽気を見極めて、夕方に干すの。もう、霜は降りないから、大丈夫」

手ぬぐい被りをした頭を指差す面影は、昭和61年ごろだったか。クロマティを挑発する遠藤一彦のようにも見えた。

そうしてベランダから戻る。ばあさんはこんなに捨てる端を出さなかったろう。不肖の孫はシンクを見て嘆く。捨てすぎである。だがそれ以上、取り置く勇気も気概も、ない。

「ひっぺがすというのは、あれは方言だ」

共産主義者の入婿(私の血縁上の父親ともいう)は、そういっていた。自分だって方言を話す。むしろ中途半端なインテリにありがちな話で、その話しことばは、根付いていない、無様に聞こえるものだった。だからなおさら悪質なように僕には思えた。自分を棚に上げ、他人の方言は標準化したくてたまらない性分。これについては、いちどかにど殴り合ったことがある。

彼は、先ほど電話したところ、自治医大のコロナ病棟の上の上、つまり二階ほど上で(どうしてもこういうのを入れてしまうわが性分よ)、静かに寝息を立てているらしい。口から、話すことばが失われて久しい。

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まだ「塩昆布」などという文明の利器(文明の力。安岡力也と書こうと思ったが禁欲する)のなかったころ、ばあさんは、塩、天日干しをしたりんごと柑橘の皮、細く切った昆布、赤い唐辛子、水、少々の味の素、益子焼の器、によって、白菜の切れ端も根元も、それは見事な漬物に仕上げてくれた。

白くて固い部分に、鰹節と醤油を少し垂らして食べるのが、とりわけうまかった。

どうして「とりわけ」なのか?