illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

みーちゃんと春を待ち望む

今日辺りは、まだ少し早いけれど、船橋大寒から節分への移り変わりの近いことを思わせる陽気でした。

春は待ち望むものなので、訪れはだれでも気づきます。対して、秋は、あまり望まれない。収穫の秋は待ち遠しい。けれどそれ以外の秋は大方、切ないものとして感受されてきただろうと思います。

したがって秋の訪れは「もう来ていたか」という気付きの詠嘆とともに紡がれる。春は「春なのに」と、春の到来を所与として、にもかかわらずの形で語られる。

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写真は2018年3月末の、神田か御茶の水かな。

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2年前の春先だったか、つい、ベランダ側のガラス引き戸を半開きにして、あまりの陽気のよさにそのまま居眠りをしてしまい、5分か10分、みーちゃんをベランダに出してしまったことがありました(犯罪告白)。

猛烈にうろたえて、背を腰を尻尾をぐっと押さえて、無理矢理に部屋に引きずり戻しました。みーちゃんはわけがわからず、激しく抵抗し、僕は右手中指に爪と歯をきつく立てられました。

後から思えば、みーちゃんのじっとしている格好は、脱走を企てたというのではなく、マインスイーパで陣地を広げて、その1歩2歩先に危ないものがないかじっと観察する姿でした。

これはみーちゃんとの付き合いが長くなって思い返したことです。みーちゃんはむやみに遠出するのではなく、まず地歩を固め、温めることに時間を使う(案外慎重な)タイプです。

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みーちゃんは激しいけれどむやみなことをしない。部屋に引き戻したあとしばらくは僕を避けていましたが、その後はずっと「かまってちゃん」です。

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みーちゃんに好かれる人生でよかったと、つくづく思います。ふとした瞬間に、みーちゃんに支えられていることに気付かされます。