illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

他人(ひと)の行動は変わらない

他人(ひと)の行動は変わらない。変えるのはいちばん難しい。

まさか日本の選ばれた政治家がそのことを知らずに政治を行っているとは――多少は思っていましたけれど、まさかここまでとは――驚きと、まさしく「遺憾の意」であります。

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彼――菅義偉――には、もう技がないです。残っていない。どうしても、「あと1か月、首相をやりたい。やらせてほしい」というのなら、そこに下りて、繰り出せるだけの技を繰り出すのが筋でしょう。記者会見で土下座すればいいと思います。

顰蹙は買うでしょうし、残りの技が土下座しかないのも驚天動地ですし、彼の面子がそれを許さないでしょうけれど、僕にはもう、重圧に耐えきれずに精神に変調を来しているご老人のやつれた顔と姿にしか見えません。

丁寧な説明を伴ってお願いすべきところ――彼だって横浜市議会議員の初心はそうだったんじゃないですか――を「強い思い」と「決意」《なるもの》で押し切り、コミュニケーションを遮断し(日頃の行いがそうやって磨くべき機会を自ら放擲するようだから自由にメッセージを発出できる肝心の場面で活舌がわるい)、政治の言質を貶めるのは、これ以上はお止めになるべきです。

そんな体たらく、程度だから、行動が変わらないんです。自分も。他人も。民主主義の原理原則にも、士大夫的な世界観(修身斉家治国平天下)にも、真向、反しています。