illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

二階俊博のアレについてちょっとだけ腑分けをします

二階俊博のアレについてちょっとだけ腑分けをします。

二階氏、五輪「開催しないお考え聞いてみたいぐらいだ」 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

面(つらぁ)見るのもむかつくのでテキストリンクのみにします。論旨は4点です。

  1. これは空文である。話題が五輪であれ何であれ二階はこの論法に当てはめることができる。
  2. 「お考え(を)聞いてみたい」と話しているが聞く気はない。
  3. 踏み絵である。
  4. スポンサーに対する芸者の顔見世である。

もう上の要旨でほぼ言い尽くした気もします。が、少々補足は必要と思います。

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1

空文であるということ。五輪の開催でも外国人技能実習生でも何でも構いません。「おれはA(開催)だといっている。not A(開催しない)のお考えを聞いてみたいくらいだ」。これが一部のマスコミで2割程度の嫌みのほのめかしを伴って語られる「二階氏の政局と勘所」「みかん箱配り」です。政治は一応は同時代のことばとコミュニケーションが最高度に洗練された姿形をしているものです。みなさんのそれがこれです。

2

考えを聞く気がないということ。これはいうまでもないですね。支持率だけは見るようです。発達心理学でいうダブルバインドそのもので、親が「何でも(困ったことがあったら)いってごらん」といって、子が本当に困ったときに手を差し伸べない。そうだとしたら不信感が募ります。

3

踏み絵であるということ。二階派と自民主流派への引き締めです。1と同じです。対象は何でもいい。「おれの側につくのか、どうだ」と見栄を切る。五輪の政治利用だなどといわれますがこの人はもう一段劣る。五輪の政局利用です。そして繰り返しますが対象は何でもいい。政局と見るや「抜群の政局勘で」踏み絵を出してどうだとやる。

同時にこと五輪に関しては「おれと子分は開催中止宣言のババ引かねえからな。弱小派閥の角の立たなそうなの誰かいるだろ」と他派閥に先手を打つ効果もあります。

4

スポンサーに対する芸者の顔見世であるということ。知りませんけど五輪にはヒトやカネやモノを出してくれるスポンサーがいるんでしょう。もらっちゃって返せないものだから「やる」といい続けるしかない。使っちゃったんですかね。

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だからむやみに発言内容(意味)にとらわれることはないんです。東京五輪は無理です。局面はもう間もなく誰にババ(開催断念断腸宣言)を引かせるかに入ります。一人じゃ重いので記者会見はJOC委員/議員の複数になるかと思います。臨席の一人はおそらく山下泰裕――80年モスクワと84年ロスを彼は想起するんでしょうね――です。森喜朗の代役。もう一人が僕は小泉進次郎にぜひともと思いますけど。

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もう1点いいますね。桜井哲夫さんの「思想としての60年代」。これが非常にいい本なんですけど、1964年の東京五輪は国民精神的に2つのマイルストーンがあったと説く。

思想としての60年代 (ちくま学芸文庫)

ひとつが「もはや戦後ではない」(1956)。いまひとつが「父=マッカーサー元帥に日本が立派になった姿をお見せしたかった」。マッカーサーは64年4月5日に亡くなります。およそ60年を経て、通奏低音の如き日本人の精神と精神史の祖型が変わらぬものだとすれば、感覚と思想の必然は次のようになるはずです。

  • まず、福島の復興をいまからでも十分に行うこと
  • ポスト・コロナ/ウィズ・コロナいずれにせよ、生活が新しい秩序に落ち着くこと
  • 上記2点ののちに10年11年(=1945-1956)を経て、「もはやポスト福島ではない」「もはやポスト・コロナではない」と、人々が自然に思うようになったなら――

なったなら――そのときに東京五輪(2040頃?)を開催するのが人の道、国際社会の義というものでしょう。

むろんそのときには、憚りなく申しますならば、上皇陛下も美智子様もお隠れあそばされているかと存じます。森喜朗は明日にでも参内して上記をこれこれと奏上し、その足で二階と差し違え、申し訳ありませんでしたと、腹を切るのが筋です。