illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

古市アドミッション記念特大号その2/2

第161回(2019年上半期)芥川賞の選評から、古市憲寿「百の夜は跳ねて」に各選者が言及した部分を引用し、並べることにより、鑑賞する試みの続きです。

古市アドミッション記念特大号その1/2 - illegal function call in 1980s

小川洋子、髙樹のぶ子、奥泉光山田詠美島田雅彦川上弘美宮本輝吉田修一堀江敏幸、以上9名の中から、今回は川上以下4名の評でお届けします。

(引用はすべて「文藝春秋2019年9月号」P.326-335から。)

川上弘美

「百の夜は跳ねて」を一読し、前作よりも厚みがあると感じました。「老婆」と語り手と「先輩」との有機的な関係が、読み進むための推進力になっています。何より、高層ビルのガラス清掃の仕事にかんする立体的な書きようの中に、作者の新しい声を聞いたように思ったのです。読み終わり、「参考文献」をぼんやり眺めていたら、「木村友祐「天空の絵描きたち」『文學界文藝春秋、2012年10月号」とありました。いわゆる「古典」ではない小説が参考文献に? と驚き、編集部に頼んでコピーしてもらい、読みました。

結論から言います。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声が、そのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです。小説家が、いや、小説に限らず何かを創り出す人びとが、自分の、自分だけの声を生みだすということが、どんなに苦しく、またこよなく楽しいことなのか、古市さんにはわかっていないのではないか。だからこんなにも安易に、木村さんの声を「参考」にしてしまったのではないか。たとえ木村さんご自身が「参考」にすることを了解していたとしても、古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持に欠ける行為であると、わたしは思います。そのことを感じ取れるようになった時に、はじめて古市さんは、一人の小説家として立つ端緒を開くことができるのではないでしょうか。

宮本輝

古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」は、前作よりもはるかに腕を上げたと思うが、高層ビルの窓拭きを仕事とする青年だけを書けたら、受賞の対象となったろうという気がした。他の登場人物たちがみな類型の寄せ集めなのだ。

吉田修一

『百の夜は跳ねて』

なにより主人公の凡庸な価値観に唖然とする。タワーマンションの上層階に住んでいるのが上流で、下層階は下流? 高層ビルの中で働いている人が優秀で、外で働いている人が劣等? もちろんこのような凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、ともすれば、作家としては致命的ではないだろうか。あと、参考文献に上げられていた木村友祐氏の佳品『天空の絵描きたち』を読み、本作に対して盗作とはまた別種のいやらしさを感じた。ぜひ読み比べてほしいのだが、あいにく『天空の…』の方は書籍化されておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。

無名であることが蔑ろにされるべきではない。たとえそれが現実だとしても、文学がそこを諦めたら終わりじゃないかと自戒の念も込めて強く思う。

 堀江敏幸

高層ビルの窓の清掃をする人たちは、都会の景色に背を向けて、目の前のガラスの汚れに神経を集中する。古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」の主人公は、そういう仕事に就きながら、表面に映じた自分の顔しか見ていない。地上二百五十メートルの高さにではなく、参考文献にあげられた他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか。

(略)

今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」(略)は、他人を鏡にして自身のいびつさを際立たせるのだが、そのいびつさを何か愛しいものに変えていく淡々とした語りの豪腕ぶりに、大きな魅力がある。自分のことしか見えていないのに他者との関係を浮き彫りにする、この眼力の持ち主ならば、言葉の高層ビルの窓ガラスに映った自分の顔を拭き取ることができるだろう。本作を推した。

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